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2019年5月 9日 (木)

第53話 前方後円墳を飾る円筒埴輪は、砂鉄を袋詰めするための漏斗(じょうご)か?

 明石海峡を望む五色塚古墳には埴輪列が復元され、夕闇の中、シルエットが浮かび上がります。

 私は、「縄文海進により海水面が高かった時代に、当時の汀や河川の合流地点に大量の砂鉄が堆積し、海退によって海水面が下がった弥生時代から古墳時代にかけて、砂鉄を求めゴールド・ラッシュならぬアイアン・サンド・ラッシュ現象が起こったのではないか。3世紀から7世紀にかけて、技術集団が大量の砂鉄を掘り尽くしながら日本列島を移動し、残土で造ったモニュメントが前方後円墳ではないか。」と考えています。 

 そんな思いで埴輪列を眺めていると、壺を載せる器台が起源と言われる朝顔型埴輪が、昔、お米を袋詰めする際に使っていた長い足の漏斗に見え、筒を差し込んだ袋を並べ、砂鉄を詰める人々の様子が浮かんできました。
 
 前方後円墳は、河川の合流地点や、海上交通の要衝地などの目につきやすい所に造られたと考えられていますが、縄文海進時代に堆積した砂鉄が未採掘のまま大量に眠っていたから、その地に造られたのではないでしょうか。

 また、日本列島で砂鉄や鉄鉱石から製鉄が行われたのは6世紀後半で、それまでは朝鮮半島南部から延べ板状の鉄鋌(てい)を入手していたようですが、買付け船には、対価として原料の砂鉄が積まれていたのではないでしょうか。 

 百舌鳥・古市古墳群をはじめ佐紀、馬見、三島古墳群では、4世紀末から5世紀の同時期に巨大な前方後円墳が築かれますが、アイアン・サンド・ラッシュ現象がピークを迎えた時期なのかもしれません。

 五色塚古墳には2,200本、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)には1万本以上の埴輪が並んでいたようです。仮に、一袋に人が持てる約60キロの砂鉄を入れたとすると、五色塚古墳の近くで132トンもの砂鉄が採掘できたことになり、埴輪列は、古代の人々には墓域の境界とともに、砂鉄の産出量を誇示する飾りに見えたのかもしれません。

 「前方後円墳とは、縄文海進時代に堆積した砂鉄採掘の副産物」と考えることで、古墳群が古代の湾や盆地湖の汀に立地することや、前方後円墳が3世紀中頃に出現し7世紀に姿を消したことの謎が解明できると思うのですが。

但馬二千年桂 古代史 目次 コチラ

2018年3月 4日 (日)

第52話 “松帆銅鐸”は弥生時代の日本列島が“白黒の砂鉄”の宝庫だったことを物語るのか?

 

 

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『鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る』

 

(旧約聖書ヨブ記第28章第2節、新共同訳)

 

 

 

紀元前5世紀から前3世紀に成立したとされる『ヨブ記』は、鉄は岩からでなく砂から採り出したと語ります。(砂を土とする訳もあり)

 

 

 

国生み神話の舞台、淡路島の砂の中から見つかった7個の松帆銅鐸。

 

紀元前4世紀から前2世紀に埋められたことが分かった銅鐸は、何を語るのでしょう。 

 

 

 

私は、中国山地から瀬戸内海に流れ出した砂鉄が世界一の“鳴門の渦潮”でもまれ良質な砂鉄となったのではないか。

 

温暖化により海面が高かった縄文海進の数千年間に松帆地区に打ち寄せられたのではないか。

 

弥生時代の海退で砂鉄が採取できるようになり、銅鐸を地鎮祭の鎮物(しずめもの)として砂地に埋めたのではないかと考えてきました。(第50,51話参照)

 

 

 

しかし、瀬戸内海に流れ出した砂鉄は海の藻屑と消えてしまうことから松帆地区に打ち寄せられることができたのか疑問に感じてきました。

 

 

 

〇はじまりは、2万年前?

 

 

 

 『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子2017.講談社)に

 

 瀬戸内海は水深60メートルより浅い海域が大部分を占めることから、120メートルほど海面が低かった2万年前には、完全に干上がって陸地となっていたこと

 

 東西方向に流れる河川が形成され、東向きの河川は淡路島の北側を迂回し紀伊水道を通って太平洋に注いでいたこと

 

が紹介されています。

 

 

 

縄文時代より少し遡った2万年前の旧石器時代、瀬戸内海は陸地で、徳島と淡路島の間に鳴門海峡はなく、淡路島西側、松帆沖の播磨灘で合流した2本の川は淡路島北端、松帆浦で大きく湾曲していました。

 

 

 

この湾曲により川の流れがゆるやかになり、砂鉄は、2本の川の合流地点にレアアース泥として堆積したことで拡散を免れたと考えます。

 

 

 

 

 

縄文海進で海面が上昇し淡路島ができると、明石海峡と鳴門海峡の激しい潮流と世界一の“鳴門の渦潮”が発生し、海面上昇がピークとなった約6500年前から5500年前に、比重の重い砂鉄は、潮位の差や沿岸流により砂と分離し、松帆地区の大岩の根元や淵などに打ち寄せられ溜まっていたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

弥生時代の海退により海岸線が後退すると、当時、入江であった松帆地区の砂浜に、黒い砂鉄が現れたと想像します。

 

それはまるで、白黒2つの勾玉を組み合わせた陰陽太極図のようだったのかもしれません。

 

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白黒の砂鉄●

 

円山川支流の糸井川河口付近の古い字限図で、「耳田、籠、黒白」という隣り合った失われた地名を見つけ、「黒白」という語に興味を覚えました。

 

 『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)に

 

 「出石神社所蔵の文書に記された丹後国風土記逸文に、火明命が高志(越)の国を領したのは、オオナムチとスクナヒコの二神が「白黒の鉄砂」を得たので、これを二神の霊として、火明命をして奉祭りせしめた」

 

とあったことから、白黒二色は、陰陽五行説の影響を受けた砂鉄採取にちなむのではないかと考えるようになりました。(第10話参照)*陰陽五行説が生まれる前の段階かもしれません。

 

『日本書紀』のイザナギとイザナミによる国生み神話に小鳥のセキレイが登場することから、淡路島のオノコロ島ゆかりの地には、セキレイ岩や石が祭られています。

 

白黒二色のセキレイは、陰陽太極図そのものともいえる模様をもつ鳥であることから、『日本書紀』の一書に登場するセキレイの話は、白い砂浜の岩のまわりに溜まった黒い砂鉄をイザナギとイザナミが得たことで、国生みがはじまったことを語っているのかもしれません。

 

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あるいは、陰の凪(ナギ)と陽の波(ナミ)の均衡が図れたことで、汀の砂鉄が採取できるようになったと考えてみましたが、イザナギは男で陽、イザナミは女で陰で逆転しますし、イザナキとも呼ぶことから、関係なさそうです。

 

 

 

 

 

 〇和田(わだ)という地名

 

川や湾が湾曲したところに「和田(わだ)」という地名をみかけます。

 

万葉集に大伴旅人が吉野の「夢のわだ」も瀬にならずに淵のままであってほしいという歌を詠んでいます。「和田」は、単に川が湾曲した個所を呼んだのではなく、淵などに砂鉄が溜まった特別な場所を呼んだのではないでしょうか。

 

六甲山麓で桜ケ丘銅鐸などの銅鐸が集中的に出土しますが、神戸の和田岬一帯は、明石海峡の潮流で運ばれた大量の砂鉄が堆積していたことを物語っているのかもしれません。

 

桜ケ丘銅鐸に描かれた首の長い鳥はサギではないかと言われますが、砂鉄の採取を願い白黒二色のコウノトリを描いたのでしょうか。(第話参照)

 

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〇国生み神話の島々の誕生は何を語るのか

 

『古事記』の国生み神話では、淡路、伊予、隠岐、筑紫、壱岐、対馬、佐渡、秋津島の大八島と、児島、小豆島などの6つの島の誕生が語られます。

 

火山の噴火により花崗岩で形成された中国山地は、風化とともに砂鉄を含む真砂土が山陽側、山陰側に流出し、島々が陸続きだった2万年前、砂鉄を含むレアアース泥は、採取されることなく淵や低地に堆積していたと思います。(レアアース泥:第26話参照)

 

 瀬戸内海で島々が誕生した際、砂鉄が島の硬い岩盤の周りに堆積したように、九州と対馬の間に海峡ができると、湖のようであった日本海に溜まっていた砂鉄を含む泥が一気に動き出し、壱岐、対馬の島の周りや、九州、出雲の海岸線の淵などに砂鉄が堆積したのではないでしょうか。

 

内陸の谷の奥深くで39個もの銅鐸が発見された出雲の加茂岩倉遺跡は、地震の大津波で砂鉄が打ち上げられ窪地に残ったのかもしれません。

 

琵琶湖や吉野川、大和川、紀ノ川から瀬戸内海に流れ出した砂鉄も、摂津、阿波、難波、紀州などの海岸線から少し内陸に入った当時の汀に同じように堆積していたと考えます。これらの地は、数多くの銅鐸が出土する地域です。

 

 

 

 それに対し、太平洋に面した砂浜では激しい波が打ち寄せ、砂鉄は特定の場所に打ち寄せられず稲村ケ崎のように全体に黒い砂浜となったと考えられ、採取効率が悪くこの時代には採取されなかったのではないでしょうか。

 

西日本に白砂清松の美しい砂浜が多いのは、比重のことなる砂鉄が透明な石英の粒と分離し特定の場所に堆積していたことを物語っているように思えます。

 

 

 

〇砂鉄をキーワードにすると見えてくる古代史

 

旧石器時代から縄文時代の長い間、レアアース泥として海底に堆積していた砂鉄が、突如、弥生時代に海岸線に姿を現し、数世紀をかけ掘りつくされ、白い美しい砂浜が残った。

 

弥生時代は、砂鉄採取時代だったと考えると、環濠集落が守ろうとしたものは、貴重な砂鉄で、瀬戸内海や大阪湾の沿岸を中心に形成された高地性集落簡易な製鉄法に強い風が必要だったからと思えてきます。

 

古代の日本列島に鉄の生産技術はなく鉄鋌(てってい)を原料として入手していたと言われますが、お米や特産物では交易の対価として不均衡なことから、均衡のとれる砂鉄と鉄鋌を交換したのではないでしょうか。

 

灌漑設備を備えた本格的な稲作を伝播した人々は、稲作の地を新天地に求めたのではなく、砂鉄採取が目的で海を渡り、灌漑技術を駆使し、砂鉄を採取し、跡地を水田として整備したと考えられないでしょうか。

 

現代の地鎮祭の鎮物(しずめもの)は、鐘、刀、矛などの形をした金属板で箱に入るサイズになっていますが、弥生時代には、地鎮祭を演出するため銅鐸や銅剣、銅矛などは見せる青銅器へと大型化したと考えられないでしょうか。

 

銅鐸が突如、姿を消すのは、容易に採取できた砂浜の“白黒の砂鉄”を採取しつくしたからで、その後、灌漑技術を駆使し、湖沼を干拓し広範囲で砂鉄を採取するため、残土処理が必要になり、前方後円墳が生まれ、祭祀の方法も変化したのだと思います。

 

しかし、7世紀になると主な湖沼の干拓も終焉し、鉄は山から採掘する方が効率よくなり、前方後円墳は作られなくなったのかもしれません。

 

ところで、銅鐸に渦の模様がよく描かれますが、動力機をもたない古代人にとって、渦潮や滝壺の渦は、自然の力により、丸みを帯び加工しやすい良質な砂鉄を生み出す特別な存在であったのでしょう。

 

 

 

『日本書紀』が編纂された8世紀には、数世紀前に採りつくされた“白黒の砂鉄”は忘れ去られ、セキレイの話だけが伝わっていたのでしょうか。

 

それとも、国外に資源に関することを知られないようセキレイの話として記載したのでしょうか。

 

 

 

「弥生時代の日本列島は“白黒の砂鉄”の宝庫だった」 

 

 歴史書は何も語りません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *弥生時代のはじまりをこれまでより500年遡り、紀元前10世紀とする説がありますが、この文は従来の年代観で記述しています。

 

*タイトルの「日本列島」は、瀬戸内海、日本海に面した西日本をイメージしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考図書)

 

『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子2017.講談社)

 

『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)

 

『貝が語る縄文海進』(松島義章2006.有隣堂

 

 

 

 

 

但馬二千年桂 古代史 目次コチラ

 

 

 

 

 

 

   

 

2017年10月 2日 (月)

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。

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 国生み神話の舞台、淡路島の西側、播磨灘に面した松帆地区で2015年に出土した7個の松帆銅鐸は、付着した植物片の科学分析により、紀元前4世紀から前2世紀に埋められたとみられることが分かり注目されています。

 

 銅鐸は、農耕祭祀(さいし)に使用したとの説がありますが、集落から離れた山や谷に埋められていることから、謎の多い祭器とされています。

 

 銅鐸が埋まっていたと考えられる松帆地区は、2.5kmにわたる白い砂浜に約5万本のクロマツ林が広がる景勝地で、慶野松原と呼ばれていますが、当時は、砂が堆積しラグーンと呼ばれる潟湖(せきこ)だったと考えられています。

 

 ところで、淡路島西側の丘陵地では、鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」に引き続き、その規模を上回る1世紀から3世紀初頭の「舟木遺跡」が発見されましたが、弥生時代の製鉄は、海の向こうから原材料を運び行われたと考えられています。

 

 製鉄技術は、ヒッタイト国が紀元前12世紀ころ滅亡したことで紀元前10世紀前後にインドに伝わり、紀元前7世紀に中国、さらに紀元前2世紀頃に朝鮮半島に伝わったと言われています。
 4世紀後半の入佐山3号墳(豊岡市出石町)の被葬者の頭部付近で150gの砂鉄が見つかっていますが、今のところ日本で本格的に製鉄が始まったのは6世紀後半とされています。

 

 私は、『古代製鉄物語』(浅井壮一郎著、2008年彩流社)に、古代インドで桂(カツラ)の生木を還元剤に使用し小規模なふいごで低温で製鉄できたことが紹介されていたことから、国の天然記念物に指定されている樹齢2千年の“糸井の大カツラ”が、実は生木をとるため人工的に植えられ、糸井渓谷の連続する滝つぼでもまれた良質な砂鉄をもとに、2千年前に簡易な製鉄が行われていたのではないかと考えています。

 

 淡路島の地図を眺めると、南西部がせり出し松帆地区がくぼ地になっています。瀬戸内海に流れ込んだ砂鉄は播磨灘の潮流で松帆地区に寄せられ、海水面が高かった縄文海進の数千年の間に、大量に堆積していたのではないかと考えてみました。
 当時の砂浜は白い砂浜でなく、江ノ島の稲村ケ崎のように砂鉄の多い黒い砂浜だったかもしれません。

 

 松帆地区が播磨灘に面した他の地区と違う点は何?

 

 松帆地区が播磨灘に面した他の地区と違う点は何?と考えを巡らせていたとき、2冊の本がヒントを与えてくれました。

 

 1冊は、『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子著、2017講談社)です。四国と淡路島の間にある鳴門海峡の渦潮について発生メカニズムが紹介されていました。

 

 それによると、太平洋の満潮時、高まった潮位が紀伊水道から大阪湾、さらに明石海峡から播磨灘に伝わり、潮位が高くなった播磨灘の海水が、淡路島の西側の狭い鳴門海峡を通って紀伊水道に一気に流れ込むことで渦潮が生まれること。

 

 紀伊水道から鳴門海峡を通って播磨灘に海水が流れ込む際にも渦潮が生まれ、1日それぞれの向きに2回ずつ、合計4回約6時間ごとにこの現象が起きるとあります。

 

 もう1冊は、『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』(新之介著・2016洋泉社)で、縄文海進により大阪平野が海だったころの地図が紹介されています。

 

 私は当初、松帆地区に堆積していたのは、中国山地から瀬戸内海に流れ込んだ砂鉄と考えていましたが、播磨灘で大きな渦を描くと細かな砂鉄は中心に集まってしまいます。

 

 縄文海進の時代、大阪平野は河内湾(のちに河内湖)には、琵琶湖や奈良盆地から砂鉄を含んだ土砂が流れ込んでいたことから、淡路島の周囲の海には、中国山地だけでなく近畿各地の砂鉄も漂っていたと思われます。

 

 身が引き締まった鯛の名産地で知られるとおり、淡路島の北と南には、明石海峡と鳴門海峡という潮の流れが激しい2つの海峡があります。
 淡路島の周りを激しい潮流にのって移動する砂鉄は、鳴門海峡で渦潮とともに戻されるなど複雑な動きをしながらもみ洗いされ、連続する滝つぼで生み出された良質な砂鉄に匹敵する均一で丸みを帯びた膨大な量の砂鉄が生み出されたのではないでしょうか。

 

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 昔、ナショナルに“うず潮”という洗濯機がありましたが、大潮のときには時速20kmに達する鳴門海峡で、最大30mに達するともいわれる世界最大規模の渦潮が生み出す砂鉄は、海進時代の数千年をかけ松帆地区にピンポイントで堆積し、鉱脈のようになっていたと想像します。

 

 私は、「銅鐸は砂鉄採掘を始めるにあたって行った地鎮祭の鎮物(しずめもの)ではないか」と考えています。

 

 銅鐸を造る青銅技術をもった集団にとって、純度の高い松帆地区の良質な砂鉄なら低温で製鉄することができたのかもしれません。あるいは、原材料のまま輸出していたのでしょうか。

 

 また、五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で鉄器生産が行われていたのは、淡路島西岸の丘陵地が、鉄器づくりにかかせない北西の季節風を受けること、海に囲まれ防御面で優れていることからと考えます。

 

 松帆地区では恐らく、1世紀から3世紀には堆積していた砂鉄は掘り尽くされ、一年毎に堆積する砂鉄しか採取できなかったと考えられ、播磨などから舟で運んでいたのかもしれません。

 

 ところで、縄文海進時代の地図を眺めていると、当時、岬であった大阪城がある上町台地の反りぐあいが淡路島西岸の松帆地区に似ている気がしました。

 

 上町台地東側の河内湾(のちに河内湖)に流れ込んだ砂鉄が干潮時に大阪湾へと流れ出し、台地西側の住吉大社あたりから、大仙古墳など大型の前方後円墳がある百舌鳥古墳群の広がる堺の海岸線あたりに、数千年をかけ大量に堆積していたのではないでしょうか。

 

 青銅技術をもつ技術集団は、鳴門の渦潮を見て、近くに良質な砂鉄が溜まっているに違いないと国生み神話の地、淡路島の西岸に目をつけたのではないでしょうか。

 

 彼らは日本列島を踏査し、河川や湿地、岬など地形を読み、出雲や円山川河口、摂津などで、同じ手法で良質な砂鉄を採掘したのではないでしょうか。

 

 海岸線の後退や上流からの土砂の堆積により、海抜の高いところから砂鉄を採取することが可能だったと考えられ、松帆銅鐸の同笵銅鐸が出土する出雲(荒神谷、加茂岩倉)、加茂岩倉と同笵関係にある円山川河口(気比)、摂津(桜ケ丘)など、各地の銅鐸出土地を縄文時代の海岸線の海抜を意識しながらたどれば、ダイナミックな砂鉄採掘の歴史が浮かび上がるかもしれません。

 

 縄文海進時代に海岸線にピンポイントで堆積していた箇所は、紀元前4世紀から数世紀をかけて掘り尽くされ、地鎮祭も行われなくなり、鎮め物の銅鐸は埋められなくなったのだと考えます。

 

 しかし、依然、河口付近の湿地帯など狭い日本列島の至る所に縄文海進時代の砂鉄が堆積していたと思われることから、宝の島ジパングを求め、ゴールド・ラッシュならぬアイアン・サンド・ラッシュ(造語:【iron sand rush】第25話参照)が起こったのではないかと思います。

 

 3世紀になると灌漑技術で湿地に眠る砂鉄を採取し、跡地を水田に開発し、残土で前方後円墳を造成したと考えてみました。各地の前方後古墳は、技術集団が砂鉄の埋蔵地を掘り尽くしては移動した歴史を物語っているのでしょうか。

 

 7世紀になると、縄文海進時代の砂鉄が掘り尽くされたか、湿地よりも山から効率よく原材料が採取できるようになり、前方後円墳は造られなくなったのかもしれません。

 

 古事記、日本書紀が編纂された8世紀には、かつて大量に砂鉄を採掘した時代があったことは人々の記憶から消え、淡路島は、国生みの神話の舞台としてのみ語り継がれていたのかもしれません。

 

 第25話「アイアン・サンド・ラッシュ【iron sand rush】という新発想で古代史の謎に挑む」(2012年9月1日)を書いた当時は、縄文海進時代に堆積していた砂鉄を求め、人々が一気に日本列島にやってきたと考えていましたが、何グループかの技術集団が、堆積した砂鉄の鉱脈を求め、数世紀をかけ日本列島を移動していったのではないかと考えています。

 

(2017.10.7追記)

 

兵庫・徳島「鳴門の渦潮」世界遺産登録推進協議会 のHPに「鳴門海峡に渦潮が生まれる仕組み」がイラストで詳しく紹介されていました。(コチラ

 

(2017.10.19追記)

 

兵庫県立考古博物館で10月7日から開催中の特別展「青銅の鐸と武器」を見てきました。

 

松帆銅鐸の展示もさることながら「淡路島における銅鐸器分布図」というパネルが気になりました。

 

南あわじ市の松帆地区から南東に三原平野が広がっていますが、平野の東側山際に、銅鐸が出土したと伝わる榎列上幡多、賀集福井、神代地頭方の3地区がオリオン座のベルトの三ツ星のように並んでいます。

 

緑色の濃淡で標高を表した地図を見ていると、縄文海進の時代に三原平野から、さらに奥の細い谷間を通って海水が抜けていたのではと感じました。

 

帰宅後、海抜がわかるマピオン地図で標高を確認しましたが、平野の奥は海抜30mから40m台で、水路でもあれば抜けるかも知れませんが、入江になっていたと思われます。

 

おそらく、現在の慶野松原は天橋立のように湾につきでた砂洲で、入江になっていた三原平野では、縄文海進時代の数千年に、松帆地区や入江の東際あたりに砂鉄が堆積していたのではと感じました。

 

紀元前4世紀頃には、弥生時代の海退と山からの土砂の流出を受け、標高の高い入江の周縁部から順次、葦原の湿原になっていったのではないでしょうか。

 

湿地に松の杭を打ち込んで壁を作り、水を抜きながら干拓し砂鉄を採掘したのではないかと想像します。

 

3つの出土地が等間隔に並んでいるのは、海退にあわせ入江の奥から口に向けて採掘した際に地鎮祭を行ったことを物語るのかも知れません。

 

(2017.11.20追記)

 

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鳴門海峡の渦潮でもまれた砂鉄は良質で、淡路産の砂鉄がブランド品として、袋に渦文様がデザインされていたのかもしれません。

 

後に、縄文海進時代に堆積していた砂鉄が掘り尽くされ、採掘量が減少してきた頃、淡路産の良質な砂鉄が採掘できた時代を懐かしみ、大型化した見せる銅鐸の飾耳などに渦巻き文様をデザインしたのかもしれません。

 

(2017.11.25追記)

 

「自凝島(オノコロ)神社と鶺鴒(セキレイ)石」

 

南あわじ市の松帆地区から南東に広がる三原平野の東側山際に、オリオン座のベルトの三ツ星のように銅鐸出土地があると書きましたが、その中のひとつ、榎列上幡多(えなみかみはだ)の近く榎列下幡多(えなみしもはだ)に自凝島(オノコロ)神社があり、本殿前にセキレイのつがいがとまりイザナギとイザナミに夫婦の道を示したという「鶺鴒(セキレイ)石」があることを知りました。

 

以前、ブログに、オノコロ神社にセキレイ石があるとコメントいただいていたのですが、その際、榎列の自凝島(オノコロ)神社と、南淡町沼島の自凝(オノコロ)神社と勘違いしていました。

 

第10話は、2012年6月30日 (土)に書いた古いブログで、今は少し考え方も違うのですが、セキレイ石を砂鉄採掘地の記念碑と考えると、銅鐸と砂鉄を結びつけることができるかもと思いました。

第10話 白黒と陰陽五行 日本書紀にセキレイが登場するのはなぜ?(コチラ

ブログを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)2015.5.20(コチラ

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

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但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

大阪「高低差」地形散歩には、第2弾、広域編も出版されています。

2015年5月20日 (水)

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)

兵庫県南あわじ市の西岸沿いに位置する松帆(まつほ)地区で採掘された砂の中から、弥生時代前期ー中期(紀元前3世紀~同2世紀)の銅鐸7個が見つかり、数十年に一度の発見と注目されています。

「数十年に一度の発見」 砂山から弥生時代の銅鐸

(2015/5/19 17:00神戸新聞NEXT)コチラ

淡路で銅鐸発見 神話の島沸く (2015/5/20 YOMIURI ONLINE)コチラ

淡路島で銅鐸7点 集めた砂の中から発見
(5月19日 18時14分NHK NEWSWEB)コチラ

なぜ、淡路島の西岸から7個もの銅鐸が見つかったのか。この地に埋納されていたことは何を意味するのかは、今後の専門家の研究成果によることになりますが、個人的に考察メモを記録しておくことにしました。

【考察メモ 2015.5.20 但馬二千年桂】

・銅鐸は稲作の豊穣を祈るために埋納されたものか?

 特産品、玉ねぎが畑作物であることが象徴するように、大きな河川がなく、淡路島は稲作に適していない。稲作の豊穣を祈るのであれば、もっと全国各地で見つかっても良い。

・なぜ、淡路島西岸なのか?

 西日本の地図を俯瞰し、あらためて淡路島の形を眺めてみると、岡山県や、兵庫県西播の中国山地の鉄の山地から流れ出した砂鉄が瀬戸内海に流れ込み、播磨灘の潮流でもまれ、丸みを帯び、均一の良質の砂鉄となって、長い年月をかけ堆積する地が淡路島西岸の松帆地区だったのではないか。

播磨灘:瀬戸内海東部の海域。兵庫県南西部(旧播磨国)の南側に位置し、東は淡路島、西は小豆島、南は四国で区切られて西北部に家島諸島がある。(ウィキぺディア)

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淡路島西岸といえば、弥生時代後期の鉄器づくり村、国史跡、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(淡路市黒谷)が有名である。

私は、これまで、淡路島西岸は鉄器づくりに適した風と、敵に狙われにくい防御面、さらに、西播磨、岡山、四国、和歌山など各地から材料となる砂鉄を海運で運べる利便性からこの地に鉄器づくりの村が造られたと考えていましたが、初期は、淡路島西岸が、良質な砂鉄の堆積地であったことから、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡の鉄器づくりの村が造られたのかも知れない。

弥生時代の銅鐸7個、砂置き場で発見 淡路島

(2015年5月19日19時33分 朝日新聞デジタル)コチラ ・・・この記事に西日本地図あり

・その地で青銅器の銅鐸がでるのは?

 39個と銅鐸が最多出土した加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)も、砂鉄が長い年月をかけ大量に堆積していた地域に思えることから、良質の砂鉄を求めた技術集団は、青銅器の高度な技術をもった集団だったのではないか?

 彼らは、地形から、良質の砂鉄の埋蔵地を予想できたであろう。しかし、採掘するまで埋蔵量は分からないことから、大量の砂鉄が採掘されることを祈願し、神事のあと、埋納したのではないか。

・時代とともに銅鐸が埋納されなくなったのは?

 地中に堆積していた砂鉄は、数世紀もすれば掘り尽くされ、その後は、河口で毎年、上流から流れてくる砂鉄を細々と採取したり、鉱山に移行したため、埋納する行事が執り行われなくなったのではないか。

 と考えると、それぞれの場所に埋納された銅鐸の数は、祭祀が行われた回数を示すのではないか。40個の銅鐸が出土したところでは、1年に1回であれば40年。2年に1回であれば80年の間、地下に堆積した砂鉄を採掘できたのかも知れない。

(2015.5.22追記)

松帆地区は、瀬戸内海を臨み、美しい松並木が続く国の名勝「慶野(けいの)松原」とその周辺に当たるという。

慶野松原といえば柿本人麻呂が万葉集に詠んでいる白砂青松の松原。

静岡市の三保の松原、敦賀市の気比の松原、唐津市の虹の松原、天橋立など、長い砂浜には防風林として松並木が作られているが、古代には、貴重な砂鉄を含む資源の流出を防ぐ目的で植えられ、砂浜が拡大したのかも知れない。

大量の松の木杭が東京駅の基礎杭として用いられていたことからもわかるとおり、松は水に強いことから、砂鉄採取の際、木杭として用いるため、植えられたのだろうか。

(2015.5.26追記)

淡路で銅鐸/謎の解明へ期待が膨らむ(神戸新聞2015/05/23)コチラ

(記事)「国生み神話で知られる淡路島と、神話の地である島根・出雲で古い型式の銅鐸が大量に見つかっていることも偶然ではない」→共通項は、「砂鉄」では。

島根・出雲の古い型式の銅鐸が山中からなのか、もしくは、古代の水際から発見されたのかわかりませんので、何の裏付けもない個人的な感想ですが。

古代史の謎は、アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】という仮設で説明できないでしょうか。

ブログを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

Katsuranoha

但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。2017.10.2(コチラ

2015年3月13日 (金)

秋スタート、NHK朝ドラ「あさが来た」のヒロインは波瑠(はる)さん。「あさが来た」と書く市は?竹田城跡がある兵庫県の朝来(あさご)市。

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photo by 吉田利栄  

波瑠、「4度目の正直」でヒロインに=秋スタートの朝ドラ「あさが来た」-NHK
2015年3月12日(木) 18時33分掲載コチラ

波瑠さんってどんな人?っていうあなたへ

“ショートヘア美女”波瑠が朝ドラヒロインに<略歴>

モデルプレス 3月12日(木)19時34分配信コチラ

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雲海に浮かぶ日の出まえの粟鹿山(中央)と竹田城跡(右手)

竹田城跡の情報は、朝来市HPコチラ

Photo


『軍師官兵衛』オープニングの竹田城跡から望む粟鹿山の「あさが来た」シーン。

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日刊ゲンダイ 3月15日(日)9時26分配信

“平成の夏目雅子”と話題 NHK朝ドラヒロイン波瑠が持つオーラ(コチラ

NHKオンライン2015年3月15日

ヒロインは波瑠さん!平成27年度後期 連続テレビ小説「あさが来た」(コチラ

2015.6.3追記)

朝ドラ史上最高のセットに波瑠、宮崎あおいらが驚がく

WEBサンテレビジョン 6月3日(水)18時54分配信 (コチラ

 

2015年3月 3日 (火)

木目調の床。窓向きの座席。観光列車「天空の城・竹田城跡号」2015.3.20 リニューアルデビュー!!

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あのラッピング列車、「天空の城 竹田城跡号」が帰ってくる!

2015.3.20 車内の装い新たに観光列車としてデビューします。

3月20日 竹田城跡山開き
観光列車「天空の城 竹田城跡号」デビュー!
特急「はまかぜ号」が竹田駅に毎日停車!

2015年3月 3日プレス(コチラ

「天空の城」観光列車 座席窓向き、竹田城跡を一望

(3月3日(火)22時14分配信)神戸新聞NEXT(コチラ

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ホームの向こうには、美しき鉄道遺産『和田山駅レンガ機関庫跡』。(コチラ

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ガタン。ゴトン。JR播但線和田山駅5番のりば。

非電化のホームをゆっくりと出発。

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町並みをすぎると、車窓にひろがる円山川の桜並木。

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周りの山並みを彩る山桜。

6月にはこんな景色がひろがります。

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電車とは一味ちがう床下から伝わる心地よい振動。

ガタン。ゴトン。

ガタン。ゴトン。

7分間の列車旅。

あっという間に竹田駅に到着です。

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竹田駅前の竹田城下まち商店街をしばし散策。

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天空バスで竹田城跡へ。

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あるいは、竹田城跡を望むビューポイント、円山川をはさんで対峙する但馬吉野、立雲峽までハイキングするもよし。

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この列車、いいな~というあなた。

いっそ、竹田城跡は明日にして、もうひと駅。

のんびり鉄旅。播但線。

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竹田駅でみなさん降りられますので、窓向きの座席に座れる確率が高まります。多分。


青倉駅まで足をのばすもよし。

新井駅まで足をのばし、近代化産業遺産『神子畑選鉱所跡』に行くもよし。

*バスの便は事前にご確認ください。

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生野駅まで足をのばし、生野銀山を訪れるもよし。

竹田城跡をより理解するには、生野銀山ははずせません。

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長谷駅、寺前駅と足をのばすと、市川の渓谷美を楽しめます。鉄旅おすすめのコースです。

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近畿地方、最大級の円墳、国史跡茶すり山古墳。

式内社 粟鹿神社。

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樹齢2千年の国天然記念物、糸井の大かつら。

とても、一日では、朝来市の魅力をお伝えできません。

ぜひ、朝来市にご一泊ください。

ラッピング列車「天空の城 竹田城跡号(キハ40系)」2014年4月26日 (土)(コチラ

【友といっしょに豊岡のねぐらに帰る動画57秒】2014.5.6撮影(YouTube コチラ

 

*はじめての動画で、カメラの手持ち撮影のため、手ブレで見づらいです。

2015年2月28日 (土)

近くにゾウ現る!?竹田城にEV車で行きたい!EVで遠出。EV新時代はじまる!

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三角のギザギザの上に、右をむく象がいるのがわかりますか。

この象の話は後ほど。

現れたのは、電気自動車(EV)の急速充電スポット、チャージスルゾウ。

Photo

竹田城跡にもっとも近い高速道路のIC。

和田山インターチェンジの出入り口にあるファミリーマート和田山IC店で、EVの急速充電器が利用できるようになりました。

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EVは、まだまだ近場の乗り物で、竹田城跡まで遠出はどうかなと思っているあなた。

チャージスルゾウ充電スポットMAP(コチラ

ファミリーマート 便利なサービス(コチラ

高速道路のサービスエリアと全国のファミマ充電スポットを利用すれば、EVで遠出もあたりまえになりそうです。

そんなEVの新時代到来を告げるCMを考えてみました。

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『天空の城、竹田城にEV車で行きたい!EV de 遠出。EV新時代はじまる!』

どこかで聞いたような・・・ご愛嬌。

日本列島の地図を上空から俯瞰。

無数の点にカメラが寄っていくと、ひとつひとつがEV充電スポット。

さらに、よっていくと、とある都内のファミマで充電し、日産リーフに乗り込む20代の女性3人組。

『天空の城、竹田城にEV車で行きたい!』と盛り上がります。

彼女たちが目指すのは、東京から600km離れた竹田城跡。

途中、新東名と名神のサービスエリアで急速充電。

待つ合間も、うまいものを食べながら、おしゃべりを楽しみ、時間はまったく苦にしない彼女たち。

ガソリン車の時代の足早な旅から、EV車は、のんびり旅に。

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旅のスタイルもかえてしまいます。

竹田城跡についた彼女たち。

南千畳の松の老木の下でひと言。

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『この松の木のある風景を後世に伝えるために、みんながEV車にのって空気がきれいになればいいね。』

社長兼CEOのカルロス・ゴーンさんの鶴の一声でこんな感じのCM。無理かなぁ。

竹田城跡の松こと、たけマチュくんも、いつの日か竹田城跡への車の乗り入れは電気自動車になっていることを願っております。

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ところで、三角のギザギザの上に、右をむく象。

忘れるところでした。

竹田城跡に近い、北近畿豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」。

そこに併設された朝来市埋蔵文化財センター『古代あさご館』(無料)(コチラ)にある巨大レプリカで復元された三角縁神獣鏡に描かれた日本最古の象の文様のです。

三角縁神獣鏡。魔境と話題に。朝来市「城の山古墳」出土の鏡には、日本最古の象の文様あり(2014年1月30日 (木))(コチラ

竹田城跡にお越しの際、是非、どこにあるか探してみてください。

*2015年3月19日までは、竹田城跡には登れません。円山川をはさんで対峙する立雲峽からの眺望をお楽しみいただくか、城下まちの散策がおすすめです。

2015.3.13追記

経産省、EVやPHVの高速道路利用者に最大6万円の調査協力費支給

Impress Watch 3月12日(木)19時1分配信 (コチラ

2015年2月14日 (土)

くるまの上の雪だるま

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都会の人を楽しませようと
車の上に積もった雪で、寝転がった雪だるまを作って出かけました。

途中のサービスエリアではご覧のとおり原型をとどめていましたが

気温があがり、途中で消えてしまいました。

2015年2月13日 (金)

雪見だいふく?

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いいえ、ツゲの木の上に積もった雪です。自然の造形は美しい。

暗闇に浮かびあがる粟鹿神社の勅使門。

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第18話 編纂1300年の古事記より古い粟鹿大明神元記の竪系図

(2012年7月25日 (水)コチラ

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但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

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