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2019年5月 9日 (木)

第53話 前方後円墳を飾る円筒埴輪は、砂鉄を袋詰めするための漏斗(じょうご)か?

 明石海峡を望む五色塚古墳には埴輪列が復元され、夕闇の中、シルエットが浮かび上がります。

 私は、「縄文海進により海水面が高かった時代に、当時の汀や河川の合流地点に大量の砂鉄が堆積し、海退によって海水面が下がった弥生時代から古墳時代にかけて、砂鉄を求めゴールド・ラッシュならぬアイアン・サンド・ラッシュ現象が起こったのではないか。3世紀から7世紀にかけて、技術集団が大量の砂鉄を掘り尽くしながら日本列島を移動し、残土で造ったモニュメントが前方後円墳ではないか。」と考えています。 

 そんな思いで埴輪列を眺めていると、壺を載せる器台が起源と言われる朝顔型埴輪が、昔、お米を袋詰めする際に使っていた長い足の漏斗に見え、筒を差し込んだ袋を並べ、砂鉄を詰める人々の様子が浮かんできました。
 
 前方後円墳は、河川の合流地点や、海上交通の要衝地などの目につきやすい所に造られたと考えられていますが、縄文海進時代に堆積した砂鉄が未採掘のまま大量に眠っていたから、その地に造られたのではないでしょうか。

 また、日本列島で砂鉄や鉄鉱石から製鉄が行われたのは6世紀後半で、それまでは朝鮮半島南部から延べ板状の鉄鋌(てい)を入手していたようですが、買付け船には、対価として原料の砂鉄が積まれていたのではないでしょうか。 

 百舌鳥・古市古墳群をはじめ佐紀、馬見、三島古墳群では、4世紀末から5世紀の同時期に巨大な前方後円墳が築かれますが、アイアン・サンド・ラッシュ現象がピークを迎えた時期なのかもしれません。

 五色塚古墳には2,200本、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)には1万本以上の埴輪が並んでいたようです。仮に、一袋に人が持てる約60キロの砂鉄を入れたとすると、五色塚古墳の近くで132トンもの砂鉄が採掘できたことになり、埴輪列は、古代の人々には墓域の境界とともに、砂鉄の産出量を誇示する飾りに見えたのかもしれません。

 「前方後円墳とは、縄文海進時代に堆積した砂鉄採掘の副産物」と考えることで、古墳群が古代の湾や盆地湖の汀に立地することや、前方後円墳が3世紀中頃に出現し7世紀に姿を消したことの謎が解明できると思うのですが。

但馬二千年桂 古代史 目次 コチラ

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コメント

古墳を築造するための大量の土砂が必要ですが、
それは比較的近くに求めたようで、土砂を採取(採掘)した跡の穴ボコに雨水等が溜まって古墳と同規模の池に成ったようです。

古墳自体は出雲の高山磐座祭祀が終わるのと入れ替わるように築造されるようになって行った様に思います。
出雲族は基本的に四隅突出し方墳墓。
これは古代出雲族の信仰から×紋様を表しているそうです。
×印は世界共通の男女の交合(性交)を意味して、繁栄、豊穣の根源で尊いモノだとして広く使われています(今も、無意識に×印や+印が(家紋ほか)使われ、溢れています)
出雲族の神社の屋根に乗る千木はその現れの一つ。
因みに、出雲系の千木は縦削ぎです。(俗説の男神、女神の区別は誤り)

銅鐸は紀元前2世紀頃に秦国からの渡来人(徐福。忠実な部下のホヒと子のヒナドリ)が出雲王国に招来した楽器で祭器がベースで
出雲風にアレンジしたモノ。
形状から昆虫のサナギに似ているとして
正式名称はサナギの古語であるサナグです。

五色塚古墳。
色とりどりの葺石は淡路島のその名も五色浜(旧津名郡五色町(洲本市五色町))から運んだ。と考えられています。

円墳墓頂上の中心に立って拍手や音声を放つと、周囲に配置された円筒埴輪が共鳴、エコー(こだま)して何とも不思議な心持ちになりました。

ここから古墳の中心線を伸ばした対岸には「岩屋」の「小さな岩山」が望めますが、
これがただ者ではないのは、麓の洞窟がイザナギの元幽宮伝承地。
伝説では神功皇后が西国に賊を討伐に出師の砌、正にここ垂水沖に皇軍船団が集結するなか、
渡海して岩山(三対山)の山上、石屋神社に参拝。懇ろな加持祈祷を行った云々。
更に仮想ラインを南に伸ばすと淡路島第一の霊山、先山に向いて築造されたような感じを受けます

大仙古墳ほかの周辺の古墳群を築造するためには莫大な費用の財源が必要ですが、

併せて日本書や古事記等には、仁徳天皇は三年の免税を実施した事が記されています。
いくら国?とは言え、三年も租税収入がなければ国庫は底を尽き、大変な状況に陥るはずですが、
それでも空前絶後の巨大な古墳(陵墓)群を築造できた訳が、
謂ゆる、神功皇后の三韓国征伐(出雲王家の伝承では史実。
この時の武内宿祢は武内宿祢こと、武内臣大田根(初代。垂仁=物部イクメ大王と同世代)の「曾孫の武内臣襲津彦王」(日向襲津彦とか長柄襲津彦、葛城襲津彦。等、居住地の変遷が名称に付与される))
と共に得た半島三国の権益、年貢が振れば出る出る!?「打出の小槌」でした。
当時の倭国の平群王朝は実質的には近畿地域(畿内)だけを実効支配するだけで
後は各地の豪族らと連合する連合国家。
年貢収入は半島三国からもたらされるモノに比べれば微々たる?モノ


ところで、川底等の砂鉄を掬い取る為に考案されたのが竹網状の簸(ヒ)。
正に砂鉄採取の為に作られたと言います🎵
ヒで砂鉄を大量に掬い取る事が出来た事から「ヒの川」、、、氷川(加古川の古名称も氷川)、斐川、簸川、斐伊川、日野川、、、

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