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2018年3月 4日 (日)

第52話 “松帆銅鐸”は弥生時代の日本列島が“白黒の砂鉄”の宝庫だったことを物語るのか?

 

 

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『鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る』

 

(旧約聖書ヨブ記第28章第2節、新共同訳)

 

 

 

紀元前5世紀から前3世紀に成立したとされる『ヨブ記』は、鉄は岩からでなく砂から採り出したと語ります。(砂を土とする訳もあり)

 

 

 

国生み神話の舞台、淡路島の砂の中から見つかった7個の松帆銅鐸。

 

紀元前4世紀から前2世紀に埋められたことが分かった銅鐸は、何を語るのでしょう。 

 

 

 

私は、中国山地から瀬戸内海に流れ出した砂鉄が世界一の“鳴門の渦潮”でもまれ良質な砂鉄となったのではないか。

 

温暖化により海面が高かった縄文海進の数千年間に松帆地区に打ち寄せられたのではないか。

 

弥生時代の海退で砂鉄が採取できるようになり、銅鐸を地鎮祭の鎮物(しずめもの)として砂地に埋めたのではないかと考えてきました。(第50,51話参照)

 

 

 

しかし、瀬戸内海に流れ出した砂鉄は海の藻屑と消えてしまうことから松帆地区に打ち寄せられることができたのか疑問に感じてきました。

 

 

 

〇はじまりは、2万年前?

 

 

 

 『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子2017.講談社)に

 

 瀬戸内海は水深60メートルより浅い海域が大部分を占めることから、120メートルほど海面が低かった2万年前には、完全に干上がって陸地となっていたこと

 

 東西方向に流れる河川が形成され、東向きの河川は淡路島の北側を迂回し紀伊水道を通って太平洋に注いでいたこと

 

が紹介されています。

 

 

 

縄文時代より少し遡った2万年前の旧石器時代、瀬戸内海は陸地で、徳島と淡路島の間に鳴門海峡はなく、淡路島西側、松帆沖の播磨灘で合流した2本の川は淡路島北端、松帆浦で大きく湾曲していました。

 

 

 

この湾曲により川の流れがゆるやかになり、砂鉄は、2本の川の合流地点にレアアース泥として堆積したことで拡散を免れたと考えます。

 

 

 

 

 

縄文海進で海面が上昇し淡路島ができると、明石海峡と鳴門海峡の激しい潮流と世界一の“鳴門の渦潮”が発生し、海面上昇がピークとなった約6500年前から5500年前に、比重の重い砂鉄は、潮位の差や沿岸流により砂と分離し、松帆地区の大岩の根元や淵などに打ち寄せられ溜まっていたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

弥生時代の海退により海岸線が後退すると、当時、入江であった松帆地区の砂浜に、黒い砂鉄が現れたと想像します。

 

それはまるで、白黒2つの勾玉を組み合わせた陰陽太極図のようだったのかもしれません。

 

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白黒の砂鉄●

 

円山川支流の糸井川河口付近の古い字限図で、「耳田、籠、黒白」という隣り合った失われた地名を見つけ、「黒白」という語に興味を覚えました。

 

 『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)に

 

 「出石神社所蔵の文書に記された丹後国風土記逸文に、火明命が高志(越)の国を領したのは、オオナムチとスクナヒコの二神が「白黒の鉄砂」を得たので、これを二神の霊として、火明命をして奉祭りせしめた」

 

とあったことから、白黒二色は、陰陽五行説の影響を受けた砂鉄採取にちなむのではないかと考えるようになりました。(第10話参照)*陰陽五行説が生まれる前の段階かもしれません。

 

『日本書紀』のイザナギとイザナミによる国生み神話に小鳥のセキレイが登場することから、淡路島のオノコロ島ゆかりの地には、セキレイ岩や石が祭られています。

 

白黒二色のセキレイは、陰陽太極図そのものともいえる模様をもつ鳥であることから、『日本書紀』の一書に登場するセキレイの話は、白い砂浜の岩のまわりに溜まった黒い砂鉄をイザナギとイザナミが得たことで、国生みがはじまったことを語っているのかもしれません。

 

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あるいは、陰の凪(ナギ)と陽の波(ナミ)の均衡が図れたことで、汀の砂鉄が採取できるようになったと考えてみましたが、イザナギは男で陽、イザナミは女で陰で逆転しますし、イザナキとも呼ぶことから、関係なさそうです。

 

 

 

 

 

 〇和田(わだ)という地名

 

川や湾が湾曲したところに「和田(わだ)」という地名をみかけます。

 

万葉集に大伴旅人が吉野の「夢のわだ」も瀬にならずに淵のままであってほしいという歌を詠んでいます。「和田」は、単に川が湾曲した個所を呼んだのではなく、淵などに砂鉄が溜まった特別な場所を呼んだのではないでしょうか。

 

六甲山麓で桜ケ丘銅鐸などの銅鐸が集中的に出土しますが、神戸の和田岬一帯は、明石海峡の潮流で運ばれた大量の砂鉄が堆積していたことを物語っているのかもしれません。

 

桜ケ丘銅鐸に描かれた首の長い鳥はサギではないかと言われますが、砂鉄の採取を願い白黒二色のコウノトリを描いたのでしょうか。(第話参照)

 

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〇国生み神話の島々の誕生は何を語るのか

 

『古事記』の国生み神話では、淡路、伊予、隠岐、筑紫、壱岐、対馬、佐渡、秋津島の大八島と、児島、小豆島などの6つの島の誕生が語られます。

 

火山の噴火により花崗岩で形成された中国山地は、風化とともに砂鉄を含む真砂土が山陽側、山陰側に流出し、島々が陸続きだった2万年前、砂鉄を含むレアアース泥は、採取されることなく淵や低地に堆積していたと思います。(レアアース泥:第26話参照)

 

 瀬戸内海で島々が誕生した際、砂鉄が島の硬い岩盤の周りに堆積したように、九州と対馬の間に海峡ができると、湖のようであった日本海に溜まっていた砂鉄を含む泥が一気に動き出し、壱岐、対馬の島の周りや、九州、出雲の海岸線の淵などに砂鉄が堆積したのではないでしょうか。

 

内陸の谷の奥深くで39個もの銅鐸が発見された出雲の加茂岩倉遺跡は、地震の大津波で砂鉄が打ち上げられ窪地に残ったのかもしれません。

 

琵琶湖や吉野川、大和川、紀ノ川から瀬戸内海に流れ出した砂鉄も、摂津、阿波、難波、紀州などの海岸線から少し内陸に入った当時の汀に同じように堆積していたと考えます。これらの地は、数多くの銅鐸が出土する地域です。

 

 

 

 それに対し、太平洋に面した砂浜では激しい波が打ち寄せ、砂鉄は特定の場所に打ち寄せられず稲村ケ崎のように全体に黒い砂浜となったと考えられ、採取効率が悪くこの時代には採取されなかったのではないでしょうか。

 

西日本に白砂清松の美しい砂浜が多いのは、比重のことなる砂鉄が透明な石英の粒と分離し特定の場所に堆積していたことを物語っているように思えます。

 

 

 

〇砂鉄をキーワードにすると見えてくる古代史

 

旧石器時代から縄文時代の長い間、レアアース泥として海底に堆積していた砂鉄が、突如、弥生時代に海岸線に姿を現し、数世紀をかけ掘りつくされ、白い美しい砂浜が残った。

 

弥生時代は、砂鉄採取時代だったと考えると、環濠集落が守ろうとしたものは、貴重な砂鉄で、瀬戸内海や大阪湾の沿岸を中心に形成された高地性集落簡易な製鉄法に強い風が必要だったからと思えてきます。

 

古代の日本列島に鉄の生産技術はなく鉄鋌(てってい)を原料として入手していたと言われますが、お米や特産物では交易の対価として不均衡なことから、均衡のとれる砂鉄と鉄鋌を交換したのではないでしょうか。

 

灌漑設備を備えた本格的な稲作を伝播した人々は、稲作の地を新天地に求めたのではなく、砂鉄採取が目的で海を渡り、灌漑技術を駆使し、砂鉄を採取し、跡地を水田として整備したと考えられないでしょうか。

 

現代の地鎮祭の鎮物(しずめもの)は、鐘、刀、矛などの形をした金属板で箱に入るサイズになっていますが、弥生時代には、地鎮祭を演出するため銅鐸や銅剣、銅矛などは見せる青銅器へと大型化したと考えられないでしょうか。

 

銅鐸が突如、姿を消すのは、容易に採取できた砂浜の“白黒の砂鉄”を採取しつくしたからで、その後、灌漑技術を駆使し、湖沼を干拓し広範囲で砂鉄を採取するため、残土処理が必要になり、前方後円墳が生まれ、祭祀の方法も変化したのだと思います。

 

しかし、7世紀になると主な湖沼の干拓も終焉し、鉄は山から採掘する方が効率よくなり、前方後円墳は作られなくなったのかもしれません。

 

ところで、銅鐸に渦の模様がよく描かれますが、動力機をもたない古代人にとって、渦潮や滝壺の渦は、自然の力により、丸みを帯び加工しやすい良質な砂鉄を生み出す特別な存在であったのでしょう。

 

 

 

『日本書紀』が編纂された8世紀には、数世紀前に採りつくされた“白黒の砂鉄”は忘れ去られ、セキレイの話だけが伝わっていたのでしょうか。

 

それとも、国外に資源に関することを知られないようセキレイの話として記載したのでしょうか。

 

 

 

「弥生時代の日本列島は“白黒の砂鉄”の宝庫だった」 

 

 歴史書は何も語りません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *弥生時代のはじまりをこれまでより500年遡り、紀元前10世紀とする説がありますが、この文は従来の年代観で記述しています。

 

*タイトルの「日本列島」は、瀬戸内海、日本海に面した西日本をイメージしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考図書)

 

『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子2017.講談社)

 

『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)

 

『貝が語る縄文海進』(松島義章2006.有隣堂

 

 

 

 

 

但馬二千年桂 古代史 目次コチラ

 

 

 

 

 

 

   

 

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コメント

何でも、銅鐸は中国(秦帝国)からの渡来人らが招来した楽器?を古代出雲帝国が鋳直したモノ(件の渡来人(天津神)らは銅矛をトーテムとした。)で、それをシンボルとしていた?
あの形状はサナギを表したモノとか?
、、、サナギ(サナグ)から生命が産まれる(転生する)事に神秘性を感じた。
なので名称もサナギ、サナグ(より古い言葉)等と呼んで、
祭儀に鳴らす神器(神秘性のあるもの)とされていた?

出雲王家の末裔による伝承(本当の古代史)。(銅鐸が埋められた理由の行)
、、、

徐福の和名「火明命」と「饒速日尊」これは同人異名
(先代旧事本紀の「天神本紀」にある火明命櫛玉饒速日尊のこと)
徐福は二度目の渡来のあとチクゴ(筑後)国の吉野ケ里に住んだ。
かれの子孫(スサノオの子孫)は物部氏となりチクゴ方面の豪族の頭となった。
ヤマトの人々が銅鐸の祭をすると、物部勢力が集団で銅鐸を壊して回った。
その結果人々は銅鐸を埋めて隠し、以後は銅鐸祭祀を中止した。
その話は出雲に伝わり、出雲の両王家が銅鐸を集めて地下に埋納した。
1996年加茂岩倉(雲南市加茂町)の丘の崖から埋納された39個の銅鐸、、、

とのことです。

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