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2017年10月 6日 (金)

第51話 銅鐸は、砂鉄採掘事業の地鎮祭で埋めた鎮物(しずめもの)か?

 淡路島の西側、松帆地区で採掘した砂の山から偶然みつかった松帆銅鐸は、科学分析により、紀元前4世紀から前2世紀に埋められたことが分かり注目されています。

 

 銅鐸は、集落から離れた山や谷に埋めらた状態で発見されることがあり、謎の多い祭器とされています。

 

 当時の松帆地区は砂が堆積し、ラグーンと呼ばれる潟湖(せきこ)だったと考えられていることから、銅鐸を埋める目的は農耕祭祀(さいし)ではなかったのではと感じました。

 

 私は、海水面が上昇していた縄文海進の数千年の間に、鳴門の渦潮により生み出された良質な砂鉄が、松帆地区に鉱脈のように堆積していたのではないかと考えています。(第50話参照

 

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 ところで、銅鐸と言えば、出雲にある39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)と、6個の銅鐸と358本の銅剣が出土した荒神谷遺跡(島根県出雲市)が有名です。

 

 両遺跡の間の標高315.3mの大黒山には、兵主神社に大黒さんといわれる大国主命とスクナビコナがまつられています。
 神社の言い伝えによれば、大国主命とスクナビコナ神がこの山に登り、平野や内海を眺めて、国を豊かにしようと相談した所で、山頂は急で雨のため土砂が流れると大国主命が大変お嘆きになるので、参拝する人々が砂をもって登ったところ災いがなくなり、作物も良くできたということです。

 

 二神のコンビは、『古代の鉄の神々』(真弓常忠著、1997年学生社)に出石神社所蔵の文書に記された『丹後国風土記』逸文として、次のように紹介されています。

 

 「火明命が高志(越)国を領したのは、オオナムチ、スクナヒコの二神が「白黒の砂鉄」 を得たので、これを二神の霊として、火明命をして奉祭りせしめた。」

 

 私は、「白黒の砂鉄」は、連続する滝つぼでもまれ均一で丸みを帯び、河口付近に堆積した良質な砂鉄を意味するのではないかと考えています。(参照:第6話「白黒の砂鉄」と失われた地名「黒白」)

 

 スサノオの子孫とされる大国主命(別名:オオナムチ)と、スクナビコナのコンビは、各地に足跡を残していますが、地質学、地理学それに鉱物学に精通した砂鉄採掘技術集団の長だったのではないでしょうか。

 

 オオナムチとスクナヒコナが、大黒山の山頂から宍道湖や斐伊川の地形を読み、縄文海進時代に良質な砂鉄が堆積した場所の見当をつけ、採掘エリアを協議する様子が目に浮かびます。

 

 数千年かけ堆積した砂鉄を掘り尽くした技術集団は、未採掘地を求め移動したのではないでしょうか。

 

 いつの日か、砂鉄を採掘した時代があったことは忘れられ、大黒山に砂をもって参拝する意味が変わったのかもしれません。

 

 ちなみに『播磨風土記』では、オオナムチとスクナヒコネは我慢比べをする神として、また、火明命はオオナムチの子として登場します。

 

 さて、銅鐸を埋めた理由について、当初、砂鉄の鉱脈を掘る作業の開始と終了を知らせるチャイムとして使われていたものが、砂鉄を掘り尽くし用がなくなり埋められたのではないか、あるいは採掘量が減ってきた末期に、昔を懐かしみ、さらに採掘できることを願い埋めたのではと考えていました。

 

 加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡を訪れる機会があり、現地にたってみると、海岸線から離れた所にありますが、縄文海進時代には近くまで湿地帯が広がっていたと思われ、砂鉄採掘事業をはじめるにあたり、この地で、地鎮祭を行ったのではと感じました。

 

 地鎮祭では、産土神など土地の神をしずめるため、鎮物(しずめもの)を地中に埋めます。昔は、鉄製の人形(ひとがた)、鏡、剣、矛などを埋めたようですが、最近は、桐の箱に人形や鐘、刀、矛、盾、玉の形をした金属板が入っているものを埋めるようです。

 

 地鎮祭で盛る円錐形の砂を忌砂、斎砂と呼ぶことや、「産土」と書いて「うぶすな」と読むこと、鎮め物として金属板の鐘や、矛などを埋めること、これらは砂鉄採掘時代が忘れ去られた今日まで、儀式として継承されてきたのかもしれません。

 

 産土神(うぶすなかみ)に砂鉄が大量に採掘できることを願い、鎮め物として、銅鐸や銅剣を埋めたのではないでしょうか。

 

 当時、鉄製品は実用品で貴重であったことや、青銅は太陽の下では光輝き、祭の演出効果も期待できることから、銅鐸が装飾的になり大型化したと考えます。

 

 埋められた銅鐸の数は、砂鉄を採掘する範囲や予想埋蔵量に応じて、複数の技術集団が関わったことを示しているのでしょうか。それとも、地鎮祭の参列者がお供えとして持っていく風習があったのでしょうか。

 

 ところで、松帆3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、松帆5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸、加茂岩倉5号銅鐸と兵庫県豊岡市の気比2号銅鐸などは同じ鋳型で鋳造された同笵(はん)銅鐸と言われています。

 

 また、松帆7号銅鐸は中村銅鐸と外形が似ていることから、同笵関係があるか調査されるようです。

 

 出土地の大阪(伊丹)空港あたりは内陸に思えますが、海抜10mで縄文海進時代には大阪湾が入り込んだ入江でした。

 

 銅鐸は、弥生時代中期の環濠を持つ大規模集落の崖下から発見されています。伊丹段丘が突き出たところにあり、この地も砂鉄が堆積するポイントだったと感じました。

 

 近くに鴨神社がありますが、加茂岩倉といい砂鉄を採掘する集団は、湿地帯で常に見かけるカモに愛着を感じていたのかもしれません。

 

「気比(けひ)」は、“良質な砂鉄が眠る所”?

 

 松帆銅鐸が見つかった淡路島の松帆地区に、“慶野(けいの)松原”と呼ばれる美しい松並木が続く景勝地があり、柿本人麻呂も万葉集に「飼飯(けひ)の海」と詠んでいます。

 

 日本三大松原のひとつ福井県敦賀市の「気比の松原」は『日本書紀』にも詠まれ、「一夜の松原」とも呼ばれます。 

 

 近くにイザサワケをまつる気比神宮がありますが、神宮の使い白鷺が松の頂きに多数とまる伝承があるようです。白鷺は、製鉄の神が降り立つ際によく登場します。

 

 銅鐸が発見された豊岡市気比は円山川河口付近で、アメノヒボコ伝説が残る地です。
 『播磨風土記』では、アメノヒボコはアシハラノシコヲ(大国主の別名)と国を奪い合うことから、古事記や日本書紀が語る時代よりも古い時代に活躍していたのかも知れません。

 

 “気比(けひ)”という言葉の意味は分かりませんが、“良質な砂鉄” を採掘した時代があったことを伝える金属技術集団からのメッセージに思えるのですが、どうでしょうか。

 

 東京駅の改修の際、基礎杭に水に強い松が使われていましたが、天橋立などの松原は、もとは、風や高波から砂鉄の流出を防ぐとともに、採掘作業で使う杭や板を現地で調達するため植えたのかもしれません。

 

 松帆銅鐸が埋められたのは、紀元前4世紀から前2世紀とされています。

 

 オオナムチやスクナヒコナの神々は、その時代に活躍したのでしょうか。それとも、縄文海進時代に堆積した砂鉄の鉱脈が掘り尽くされ、銅鐸が埋められなくなる末期の時代だったのでしょうか。

 

(2017.10.19追記)

 

兵庫県立考古博物館で10月7日から開催中の特別展「青銅の鐸と武器」を見てきました。

 

松帆銅鐸の展示もさることながら「淡路島における銅鐸器分布図」というパネルが気になりました。

 

南あわじ市の松帆地区から南東に三原平野が広がっていますが、平野の東側山際に、銅鐸が出土したと伝わる榎列上幡多、賀集福井、神代地頭方の3地区がオリオン座のベルトの三ツ星のように並んでいます。

 

緑色の濃淡で標高を表した地図を見ていると、縄文海進の時代に三原平野から、さらに奥の細い谷間を通って海水が抜けていたのではと感じました。

 

帰宅後、海抜がわかるマピオン地図で標高を確認しましたが、平野の奥は海抜30mから40m台で、水路でもあれば抜けるかも知れませんが、入江になっていたと思われます。

 

おそらく、現在の慶野松原は天橋立のように湾につきでた砂洲で、入江になっていた三原平野では、縄文海進時代の数千年に、松帆地区や入江の東際あたりに砂鉄が堆積していたのではと感じました。

 

紀元前4世紀頃には、弥生時代の海退と山からの土砂の流出を受け、標高の高い入江の周縁部から順次、葦原の湿原になっていったのではないでしょうか。

 

湿地に松の杭を打ち込んで壁を作り、水を抜きながら干拓し砂鉄を採掘したのではないかと想像します。

 

3つの出土地が等間隔に並んでいるのは、海退にあわせ入江の奥から口に向けて採掘した際に地鎮祭を行ったことを物語るのかも知れません。

 

  ご一読いただければ幸いです。 

 

第6話 「白黒の砂鉄」と失われた地名「黒白」(コチラ

 

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

 

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

 

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

 

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)(コチラ

 

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。(コチラ

 

Katsuranoha

 

但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

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コメント

縄文海進を言うと、慶野松原はおろか三原平野の大半は海中と成ります。
当時の湊、上陸地は現在も高台に鎮座する
淡路国二宮、式内名神大社。大和大国魂神社(奈良の大和神社の紛うことなき分社)の麓がそれになります(古伝承あり)
当時は岬の上に当たる灯台のような立地に播磨灘/けひの海を望んで西向きに鎮座。
同様な立地には金比羅宮や、西宮戎神社(西宮廣田神社の出張所(神社に於ける「西宮は廣田神社固有の尊称」))、住吉大社(上町大地並びに摂津国の隅(端しっこ)の江(故にスミノエ)に鎮座)、
熱田神宮、、、等。

コメントありがとうございます。

縄文海進時代の数千年の間に、当時は海中の慶野松原から三原平野一帯の特定の場所に、砂鉄が堆積し、鉱脈のようになっていたと考えています。

その後、海退と山から流出した土砂が堆積し、紀元前4世紀から紀元前2世紀頃には砂鉄を採掘できるようになっていたと考えています。

榎列上幡多、神代地頭方、賀集福井と銅鐸が出土したと伝わる土地が三原平野の東側山麓に集中しているのも、縄文海進時代は入江のこれらの地点に堆積するポイントがあったと考えられないでしょうか。

砂鉄、製鉄に関連性の有った場所には、、、クラ、クリ(栗、厨、九里、倶利。//グリ(小石、小塊))、「クル(出雲大神荒魂/大国主神、、、クルマ(メ、ミ、ム、))」、クレ(呉、久連、ほか)、「クロ(黒、玄、畔、繰)」等が付与されているようです。

件の松帆の銅鐸発見以前にも同様な銅鐸(舌が同時出土)が近隣や他所から数点発掘されています。
七振りの青銅剣もまとまって出ています。
洲本市下加茂地区(上加茂地区には賀茂別雷神社(上賀茂神社(式内社。比定社/欽明天皇により分祠された一国一社))。下加茂地区には加茂御祖神社(下加茂神社)。加茂神社が上下揃って鎮座するのは稀)の古墳群からは三角縁神獣鏡まで出ました。

因みに、旧洲本町(洲本川以南の中心市街地ほか)はおおむね「物部」地域。

トリビア?ですが、
高句麗国からの移民が関わっている地域に句麗をクリ、クロ、クレ等の地名かと思っています。

製鉄法(タタラ)をもたらしたのが高句麗の移民だとしたら、、、
因みに、半島にも鉄に由縁の土地にはクリ等の名称があまたあるとか?

また、蛇足ながら、高句麗と百済の王家は始祖を同じくする兄弟国。
高句麗、百済の両王家の紋章(意匠は若干違うようですが)は太陽に棲むと言う三足鳥!

良く似た紋章が天皇家の錦の御幡、日幡に三足鳥が画かれていました (月幡には蛙)
神社の狛犬と獅子のコンビのルーツは天皇の御座の両脇に必ず侍っていました。(明治以降は洋式に成ったのでお払い箱?)
更に全く同じ様式が遥かオリエント地方の古代大王の玉座にも確認されています。(スメラミコト(天皇の事)は、空耳でサマリアの大王。?)

古過ぎて新しい?情報(出雲カモ族の伝承)では、
銅鐸は秦からの渡来人がもたらした楽器/神器を鋳直したモノ。
あの形は虫のサナギの形を表したモノ。
虫がサナギとなりそこから成虫へと変態、再生する事に不思議、神秘性を感じて、、、云々。
また、サナギの古語に、サナグ等と言っていたらしい。
祭儀に鳴らしていたとか。

銅鐸の来歴には、徐福が深く関わっていました。
秦の始皇帝を舌先三寸で良く啼いて手玉に取った徐福は、
当時最盛期を迎えていた出雲王国(=和国)に渡来するにあたりその一年前に配下のホヒとその息子のヒナドリらを事前交渉に派遣。
珍貴な様々な贈り物を出雲王に献上して徐福らの上陸許可を願い出ました。
その贈り物の中の楽器で祭器の扁鐘(ヘンショウ)が出雲王。第8代オホナモチの八千戈王(所謂、大国主命、大己貴命)の気を引き、
ホヒらは出雲王の御意のままに改変する事も可能です。云々。

結局、出雲族の自由な感性や国教の幸の神信仰等から所謂、銅鐸が完成。虫のサナギを模したモノとしてサナグと呼ばれ、また単に鈴とも呼ばれて、
出雲の祭に採用され、またそれは神の形代であり、出雲のシンボルとされました。
今、神社で鈴を鳴らす事の原点がこの銅鐸だったと考えられます。
以来、出雲族の在るところ、銅鐸を用いた祭儀が行われる様になります。

しかし、九州の物部(徐福が2度目の渡来。子孫勢力)が大和に侵攻して三輪山等の祭祀で用いた銅鐸を出雲族のシンボルと目の敵にして手当たり次第に破壊されて回って、出雲族は輩に神の形代の大切な銅鐸を破壊されては大変と、破壊を免れた銅鐸を土中に埋めました。

この話が出雲王国や各地に伝播して同様に埋納して避難させました。
が、それもやがて忘却されてしました。

淡路島の松帆銅鐸を考えた場合、銅鐸は出雲神族の祭儀に用いた事。
淡路島の先山から刺し昇る朝日を祭祀したで有ろう事(神山に刺し昇る朝日を大日霎貴命(天照大神)と言って崇拝した)
位置関係から考察してそれは淡路二宮。名神大社の大和大国魂神社こそが相応しい。

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