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2017年10月 2日 (月)

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。

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 国生み神話の舞台、淡路島の西側、播磨灘に面した松帆地区で2015年に出土した7個の松帆銅鐸は、付着した植物片の科学分析により、紀元前4世紀から前2世紀に埋められたとみられることが分かり注目されています。

 

 銅鐸は、農耕祭祀(さいし)に使用したとの説がありますが、集落から離れた山や谷に埋められていることから、謎の多い祭器とされています。

 

 銅鐸が埋まっていたと考えられる松帆地区は、2.5kmにわたる白い砂浜に約5万本のクロマツ林が広がる景勝地で、慶野松原と呼ばれていますが、当時は、砂が堆積しラグーンと呼ばれる潟湖(せきこ)だったと考えられています。

 

 ところで、淡路島西側の丘陵地では、鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」に引き続き、その規模を上回る1世紀から3世紀初頭の「舟木遺跡」が発見されましたが、弥生時代の製鉄は、海の向こうから原材料を運び行われたと考えられています。

 

 製鉄技術は、ヒッタイト国が紀元前12世紀ころ滅亡したことで紀元前10世紀前後にインドに伝わり、紀元前7世紀に中国、さらに紀元前2世紀頃に朝鮮半島に伝わったと言われています。
 4世紀後半の入佐山3号墳(豊岡市出石町)の被葬者の頭部付近で150gの砂鉄が見つかっていますが、今のところ日本で本格的に製鉄が始まったのは6世紀後半とされています。

 

 私は、『古代製鉄物語』(浅井壮一郎著、2008年彩流社)に、古代インドで桂(カツラ)の生木を還元剤に使用し小規模なふいごで低温で製鉄できたことが紹介されていたことから、国の天然記念物に指定されている樹齢2千年の“糸井の大カツラ”が、実は生木をとるため人工的に植えられ、糸井渓谷の連続する滝つぼでもまれた良質な砂鉄をもとに、2千年前に簡易な製鉄が行われていたのではないかと考えています。

 

 淡路島の地図を眺めると、南西部がせり出し松帆地区がくぼ地になっています。瀬戸内海に流れ込んだ砂鉄は播磨灘の潮流で松帆地区に寄せられ、海水面が高かった縄文海進の数千年の間に、大量に堆積していたのではないかと考えてみました。
 当時の砂浜は白い砂浜でなく、江ノ島の稲村ケ崎のように砂鉄の多い黒い砂浜だったかもしれません。

 

 松帆地区が播磨灘に面した他の地区と違う点は何?

 

 松帆地区が播磨灘に面した他の地区と違う点は何?と考えを巡らせていたとき、2冊の本がヒントを与えてくれました。

 

 1冊は、『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子著、2017講談社)です。四国と淡路島の間にある鳴門海峡の渦潮について発生メカニズムが紹介されていました。

 

 それによると、太平洋の満潮時、高まった潮位が紀伊水道から大阪湾、さらに明石海峡から播磨灘に伝わり、潮位が高くなった播磨灘の海水が、淡路島の西側の狭い鳴門海峡を通って紀伊水道に一気に流れ込むことで渦潮が生まれること。

 

 紀伊水道から鳴門海峡を通って播磨灘に海水が流れ込む際にも渦潮が生まれ、1日それぞれの向きに2回ずつ、合計4回約6時間ごとにこの現象が起きるとあります。

 

 もう1冊は、『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』(新之介著・2016洋泉社)で、縄文海進により大阪平野が海だったころの地図が紹介されています。

 

 私は当初、松帆地区に堆積していたのは、中国山地から瀬戸内海に流れ込んだ砂鉄と考えていましたが、播磨灘で大きな渦を描くと細かな砂鉄は中心に集まってしまいます。

 

 縄文海進の時代、大阪平野は河内湾(のちに河内湖)には、琵琶湖や奈良盆地から砂鉄を含んだ土砂が流れ込んでいたことから、淡路島の周囲の海には、中国山地だけでなく近畿各地の砂鉄も漂っていたと思われます。

 

 身が引き締まった鯛の名産地で知られるとおり、淡路島の北と南には、明石海峡と鳴門海峡という潮の流れが激しい2つの海峡があります。
 淡路島の周りを激しい潮流にのって移動する砂鉄は、鳴門海峡で渦潮とともに戻されるなど複雑な動きをしながらもみ洗いされ、連続する滝つぼで生み出された良質な砂鉄に匹敵する均一で丸みを帯びた膨大な量の砂鉄が生み出されたのではないでしょうか。

 

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 昔、ナショナルに“うず潮”という洗濯機がありましたが、大潮のときには時速20kmに達する鳴門海峡で、最大30mに達するともいわれる世界最大規模の渦潮が生み出す砂鉄は、海進時代の数千年をかけ松帆地区にピンポイントで堆積し、鉱脈のようになっていたと想像します。

 

 私は、「銅鐸は砂鉄採掘を始めるにあたって行った地鎮祭の鎮物(しずめもの)ではないか」と考えています。

 

 銅鐸を造る青銅技術をもった集団にとって、純度の高い松帆地区の良質な砂鉄なら低温で製鉄することができたのかもしれません。あるいは、原材料のまま輸出していたのでしょうか。

 

 また、五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で鉄器生産が行われていたのは、淡路島西岸の丘陵地が、鉄器づくりにかかせない北西の季節風を受けること、海に囲まれ防御面で優れていることからと考えます。

 

 松帆地区では恐らく、1世紀から3世紀には堆積していた砂鉄は掘り尽くされ、一年毎に堆積する砂鉄しか採取できなかったと考えられ、播磨などから舟で運んでいたのかもしれません。

 

 ところで、縄文海進時代の地図を眺めていると、当時、岬であった大阪城がある上町台地の反りぐあいが淡路島西岸の松帆地区に似ている気がしました。

 

 上町台地東側の河内湾(のちに河内湖)に流れ込んだ砂鉄が干潮時に大阪湾へと流れ出し、台地西側の住吉大社あたりから、大仙古墳など大型の前方後円墳がある百舌鳥古墳群の広がる堺の海岸線あたりに、数千年をかけ大量に堆積していたのではないでしょうか。

 

 青銅技術をもつ技術集団は、鳴門の渦潮を見て、近くに良質な砂鉄が溜まっているに違いないと国生み神話の地、淡路島の西岸に目をつけたのではないでしょうか。

 

 彼らは日本列島を踏査し、河川や湿地、岬など地形を読み、出雲や円山川河口、摂津などで、同じ手法で良質な砂鉄を採掘したのではないでしょうか。

 

 海岸線の後退や上流からの土砂の堆積により、海抜の高いところから砂鉄を採取することが可能だったと考えられ、松帆銅鐸の同笵銅鐸が出土する出雲(荒神谷、加茂岩倉)、加茂岩倉と同笵関係にある円山川河口(気比)、摂津(桜ケ丘)など、各地の銅鐸出土地を縄文時代の海岸線の海抜を意識しながらたどれば、ダイナミックな砂鉄採掘の歴史が浮かび上がるかもしれません。

 

 縄文海進時代に海岸線にピンポイントで堆積していた箇所は、紀元前4世紀から数世紀をかけて掘り尽くされ、地鎮祭も行われなくなり、鎮め物の銅鐸は埋められなくなったのだと考えます。

 

 しかし、依然、河口付近の湿地帯など狭い日本列島の至る所に縄文海進時代の砂鉄が堆積していたと思われることから、宝の島ジパングを求め、ゴールド・ラッシュならぬアイアン・サンド・ラッシュ(造語:【iron sand rush】第25話参照)が起こったのではないかと思います。

 

 3世紀になると灌漑技術で湿地に眠る砂鉄を採取し、跡地を水田に開発し、残土で前方後円墳を造成したと考えてみました。各地の前方後古墳は、技術集団が砂鉄の埋蔵地を掘り尽くしては移動した歴史を物語っているのでしょうか。

 

 7世紀になると、縄文海進時代の砂鉄が掘り尽くされたか、湿地よりも山から効率よく原材料が採取できるようになり、前方後円墳は造られなくなったのかもしれません。

 

 古事記、日本書紀が編纂された8世紀には、かつて大量に砂鉄を採掘した時代があったことは人々の記憶から消え、淡路島は、国生みの神話の舞台としてのみ語り継がれていたのかもしれません。

 

 第25話「アイアン・サンド・ラッシュ【iron sand rush】という新発想で古代史の謎に挑む」(2012年9月1日)を書いた当時は、縄文海進時代に堆積していた砂鉄を求め、人々が一気に日本列島にやってきたと考えていましたが、何グループかの技術集団が、堆積した砂鉄の鉱脈を求め、数世紀をかけ日本列島を移動していったのではないかと考えています。

 

(2017.10.7追記)

 

兵庫・徳島「鳴門の渦潮」世界遺産登録推進協議会 のHPに「鳴門海峡に渦潮が生まれる仕組み」がイラストで詳しく紹介されていました。(コチラ

 

(2017.10.19追記)

 

兵庫県立考古博物館で10月7日から開催中の特別展「青銅の鐸と武器」を見てきました。

 

松帆銅鐸の展示もさることながら「淡路島における銅鐸器分布図」というパネルが気になりました。

 

南あわじ市の松帆地区から南東に三原平野が広がっていますが、平野の東側山際に、銅鐸が出土したと伝わる榎列上幡多、賀集福井、神代地頭方の3地区がオリオン座のベルトの三ツ星のように並んでいます。

 

緑色の濃淡で標高を表した地図を見ていると、縄文海進の時代に三原平野から、さらに奥の細い谷間を通って海水が抜けていたのではと感じました。

 

帰宅後、海抜がわかるマピオン地図で標高を確認しましたが、平野の奥は海抜30mから40m台で、水路でもあれば抜けるかも知れませんが、入江になっていたと思われます。

 

おそらく、現在の慶野松原は天橋立のように湾につきでた砂洲で、入江になっていた三原平野では、縄文海進時代の数千年に、松帆地区や入江の東際あたりに砂鉄が堆積していたのではと感じました。

 

紀元前4世紀頃には、弥生時代の海退と山からの土砂の流出を受け、標高の高い入江の周縁部から順次、葦原の湿原になっていったのではないでしょうか。

 

湿地に松の杭を打ち込んで壁を作り、水を抜きながら干拓し砂鉄を採掘したのではないかと想像します。

 

3つの出土地が等間隔に並んでいるのは、海退にあわせ入江の奥から口に向けて採掘した際に地鎮祭を行ったことを物語るのかも知れません。

 

(2017.11.20追記)

 

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鳴門海峡の渦潮でもまれた砂鉄は良質で、淡路産の砂鉄がブランド品として、袋に渦文様がデザインされていたのかもしれません。

 

後に、縄文海進時代に堆積していた砂鉄が掘り尽くされ、採掘量が減少してきた頃、淡路産の良質な砂鉄が採掘できた時代を懐かしみ、大型化した見せる銅鐸の飾耳などに渦巻き文様をデザインしたのかもしれません。

 

(2017.11.25追記)

 

「自凝島(オノコロ)神社と鶺鴒(セキレイ)石」

 

南あわじ市の松帆地区から南東に広がる三原平野の東側山際に、オリオン座のベルトの三ツ星のように銅鐸出土地があると書きましたが、その中のひとつ、榎列上幡多(えなみかみはだ)の近く榎列下幡多(えなみしもはだ)に自凝島(オノコロ)神社があり、本殿前にセキレイのつがいがとまりイザナギとイザナミに夫婦の道を示したという「鶺鴒(セキレイ)石」があることを知りました。

 

以前、ブログに、オノコロ神社にセキレイ石があるとコメントいただいていたのですが、その際、榎列の自凝島(オノコロ)神社と、南淡町沼島の自凝(オノコロ)神社と勘違いしていました。

 

第10話は、2012年6月30日 (土)に書いた古いブログで、今は少し考え方も違うのですが、セキレイ石を砂鉄採掘地の記念碑と考えると、銅鐸と砂鉄を結びつけることができるかもと思いました。

第10話 白黒と陰陽五行 日本書紀にセキレイが登場するのはなぜ?(コチラ

ブログを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)2015.5.20(コチラ

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

Katsuranoha

但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

大阪「高低差」地形散歩には、第2弾、広域編も出版されています。

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