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2015年8月26日 (水)

東北地方の製鉄遺構が沿岸から内陸に移ったのは、燃料の木炭が尽きたのではなく、沿岸部の砂鉄を掘り尽くしたからでは。

東日本大震災の復興工事に伴う発掘調査により、東北の宮城県山元町で、7世紀末から8世紀初頭の製鉄炉や木炭窯など、古代の大規模製鉄遺構が発見されたと、2015年(平成27年)8月23日付、神戸新聞の文化欄に紹介されていました。

その記事は、

「東北地方の製鉄遺構は、7世紀後半ごろ沿岸近くに出現し、製鉄が盛んだった9世紀になると内陸で見つかっている。

川から海に向かう河口付近で砂鉄を集め、近くの丘で木を切り崩して製鉄施設を設置。砂鉄の燃料の木炭が尽きると、内陸に移ったと考えられている。」

と結ばれていました。

以下は、素人の自由な発想の無責任な発言としてお読みください。

・燃料の木炭の材料を切り出す森の木が杉やヒノキなどの針葉樹であれば、一度伐採すれば生えてきませんが、桂やクヌギなど、株立ちの広葉樹であれば、毎年、更新することが可能で、計画的に間伐すれば尽きることはなかったと思われます。

また、百年もあれば植林した苗木は大木になります。古代人が現代人のように森を破壊したとは考えられず、古代の森は豊かだったのではないでしょうか。

百年かけ沿岸近くから、内陸に移った理由を、次のように推測すると、違った古代が見えてくるかもしれません。

沿岸部の砂鉄採取は、毎年、上流から流れてくる分の砂鉄を採取したのではなく、数百年かけ一定の条件の場所に堆積し、地下で鉱脈のようになっていた砂鉄を大量に採掘するダイナミックな土木事業だったのではないか。

百年かけ、沿岸部の砂鉄は掘り尽くされ、新たな砂鉄を求め、技術集団は内陸に向かい、山を崩しで砂鉄を採取したのではないでしょうか。

沿岸部の砂鉄と内陸の砂鉄を顕微鏡で比較すれば、沿岸部の砂鉄は、山から海に流れ着くまでに丸みを帯び、一方、内陸の砂鉄は、角があまり削れていないかもしれません。

東北地方の製鉄遺構が沿岸から内陸に移ったのは、燃料の木炭が尽きたのではなく、沿岸部の砂鉄を掘り尽くしたからではないでしょうか。

また、浜砂鉄、川砂鉄の採取から、山砂鉄の採取へと採取方法が変遷したことを物語っているのかもしれません。

なお、東北の技術集団は、西日本の砂鉄を掘り尽くした技術集団が、数世紀をかけ東日本、東北へと移動したのかもしれません。

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

Katsuranoha

但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

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