第56話 イザナギのみそぎで生まれた筒之男命。「つつのを」は鶺鴒(セキレイ)の尾?

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「鶺鴒と白黒の鉄砂」(但馬二千年桂)

 日本神話に登場する筒之男命(つつのをのみこと)をご存じですか。

 イザナミを黄泉(よみ)の国まで追いかけたイザナギが、穢(けが)れをはらうため筑紫の日向で行った禊(みそ)ぎで生まれた神様です。
 住吉大社の祭神で航海の神様と言われています。 
 『古事記』は、その名を底筒之男命、中筒之男命、表(うわ)筒之男命と記し、『日本書紀』は、底筒男命、中筒男命、表筒男命と記します。

 筒之男(つつのを)は何を表すのでしょう。ヒントを『古事記』のイハレビコノ命の妃が詠んだ歌に見つけました。

 「あめ つつ ちどり ましととなどさける利目」

 「あま鳥、つつ(セキレイの一名)、千鳥、真鵐(ましとど・ホウジロのこと)のように、どうして目尻に入れ墨をして鋭い目をしているのですか」と『古事記(中)』(次田真幸1980.講談社学術文庫)に訳されています。

 「つつ」は、鶺鴒の一名のようです。すると、筒之男(つつのを)はオスの鶺鴒でしょうか。しかし、鶺鴒の雌雄は中々見分けがつきません。
 「つつのを」を「つつの尾」と解せば、「鶺鴒の尾」となります。
 「石たたき」の別名が表すように、鶺鴒が石の上で尾を振る姿は目立ちます。
 『日本書紀』の国生み神話には、「鶺鴒が尾を振り、イザナギとイザナミの性の指南役となったエピソード」が記されています。

 また『古事記』の雄略天皇が新嘗祭の宴席で謡った歌にも詠まれています。

 「まなばしら 尾行き合へ」

 「まなばしら」は鶺鴒の古名で、鶺鴒のように長い裾を交えて行き交いという意味です。

 さて、「あめ、つつ、ちどり、ましとと」は、いずれも目元が白黒2色の鳥です。
 以前、アメノヒボコの岳父・太耳ゆかりの地に「黒白」という地名を見つけ、白黒の配色について調べた際、『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)に興味深い一文を見つけました。

 「出石神社所蔵の文書に記された丹後国風土記逸文に、火明命が高志(越)の国を領したのは、オオナムチとスクナヒコの二神が「白黒の鉄砂」を得たので、これを二神の霊として、火明命をして奉祭りせしめた」

 「白黒の鉄砂」は、どのようなものでしょうか。

 縄文海進により海水面が上昇した数千年間、州浜は今より内陸にあり、山裾や岩の根の潮だまりに大量の砂鉄が堆積していたと想像しました。

 弥生時代の海退により汀が後退し、白い砂浜に黒い砂鉄の帯が姿を現したのではないでしょうか。
 まるで白黒の陰陽太極図のようで、マーブル柄の砂鉄の帯を「白黒の鉄砂」と名付けたのでしょうか。
 鉄は黒い砂と考えられるほど、まとまって採取できたのかも知れません。

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 岩手県平泉の毛越寺を訪れ、浄土式庭園の池を巡っていると、湾曲した州浜があり気になりました。
 宇治の平等院はどうかと調べてみると、『新版 古寺巡礼 京都13 平等院』(平成19年 淡交社)に、平等院庭園は小石を敷き詰めた州浜を基調に初期の姿に復元されたと紹介されていました。

 さらに、1118(元永元)年に、宇治平等院で藤原頼通の娘、寛子が行った法要の造りものに鶺鴒の名がありました。
 『中右記』に記された「十種供養」の様子が紹介されており、十種類の品々を供えて行う法要の池に立てるつくりものに、蓮の花、水鳥、樹林、鶴、鶺鴒とありました。
 鶴と鶺鴒は、白黒の配色ゆえ十種に選ばれたのでしょうか。

 宇治の平等院は、藤原頼通が、道長から相続した貴族の別荘を寺に改めたものです。法要では、『日本書紀』編纂に関与した藤原家の祖、不比等も祀ったのでしょうか。
 庭園の池に造り物の鶺鴒を飾り、州浜から眺めながら、砂鉄で財をなした先祖の歴史を子孫に語り継いだのかもしれません。

 ところでイザナギは、上の瀬は流れが早い、下の瀬は流れが弱いと中の瀬で禊ぎをします。
 流れが速い上の瀬は、砂鉄が堆積しにくく、流れが弱い下の瀬は、泥も堆積します。 
 中の瀬で禊ぎを行ったイザナギは、底、中、表の層から砂鉄を採取したのではないでしょうか。

 イザナギが、剣で火の神カグツチを斬った際に、石(いは)筒之男神(『紀』は、磐筒男神)という神様も生まれています。火で炙り岩を裂き、鉄を採取する技術もイザナギが伝えたのでしょうか。

 鶺鴒の尾を振る姿は、槌で鉄を鍛える鍛冶のようにも見えます

 さて、鉄は砂の一種と考えられていたなら、出雲や淡路に残る砂を供える風習が気になります。

 出雲大社では、スサノオを祀る素鵞社に、稲佐の浜でとった砂を供えると御利益があると言われています。旧暦10月の神無月は、出雲では全国から神々が集う神在月です。
 農閑期に膨大な量の砂鉄を採取するため、全国から神々が集まったのでしょうか。

 オオクニヌシとスクナビコナが、大黒山で国を豊かにしようと相談したと伝わる山頂の兵主神社にも、砂をもって参拝する風習があるようです。
 山頂から斐伊川の流れの変遷を読み、砂鉄の堆積地を予測するオオクニヌシの様子が目に浮かびます。

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 イザナギとイザナミを祀る淡路島の「おのころ島神社」には、鶺鴒石が祀られていますが、それよりも、安産に御利益があるという麓の御砂所が、砂鉄が堆積していた場所ではないかと気になります。

 筒之男命の「つつのを」は鶺鴒の尾で、砂鉄を暗示するのではないでしょうか。
 摂津国の一之宮・住吉大社に筒之男命が祀られるのは、そこに大量の砂鉄が堆積していたからかもしれません。

 

(イラスト 鶺鴒と「白黒の鉄砂」について)

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 左の鶺鴒に陰陽太極図を描いてみました。分かりますか。

 雌雄を書き分けていませんので、図鑑でご確認ください。

 

こちらもご覧ください。

第10話 白黒と陰陽五行 日本書紀にセキレイが登場するのはなぜ?(2012年6月30日)コチラ

(但馬二千年桂 Tajima Nisennen Katsura)

但馬二千年桂 古代史 目次 コチラ

 

 

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2019年12月 9日 (月)

第55話 奈良・中西遺跡の弥生時代の水田跡は、「砂鉄水簸(すいひ)」の施設跡か?

 奈良県御所市の中西遺跡で弥生時代前期(2500~2400年前)の水田跡が見つかりました。周辺の遺跡を含めると国内最大規模になるようです。
 灌漑用の水路はなく、ゆるやかな傾斜を利用し、高さ2、3センチの畔(あぜ)を越え全区画に水を入れていたようです。1区画は9平方メートル、4畳半ほどの小さな区画が整然と並んでいます。

 
 稲作を行う私は、以前から弥生時代の小さな区画が気になっていました。
 ネズミの巣穴やひび割れで漏水しないよう畔に泥を付けたり、害虫の棲み家になる雑草を何度も刈り取ったりと、畔の管理はとても手を取られます。また、わずかな幅とはいえ、畔の分は作付面積が少なくなります。
 水平面を確保するため小さな区画にしたようですが、棚田のような高低差もないことから、等高線に沿って区画を倍に拡げても、水面からでた土をならせば、水平面の確保はできたと思います。
 さらに中西遺跡の水田跡には用水路がない上、畔の高さが、わずか2、3センチということに疑問をいだきました。 
 3センチでは、上段の稲が水を吸い上げ、下段の田は干上がり、成長期に十分な水分が行き渡りません。同時代の福岡市・板付遺跡のように灌漑用の畔の高さは15センチから30センチは必要だと思います。

 ところで皆さんは「砂鉄水簸(すいひ)」という用語をご存じですか。
 水簸とは、比重により水中での沈降速度が異なることを利用して、底に沈んだ重い粒子を取り出す選鉱方法で、砂金の採取などに用いられます。
 柴田弘武氏の『産鉄族オオ氏』(2008年 崙書房出版)に、「田」を稲をつくるための水田ではなく、鉄をつくるための「砂鉄水簸(すいひ)」の設備と考える吉野裕氏の『風土記世界と鉄王神話』(1972年 三一書房)に記された説が紹介されています。
 砂鉄水簸の説明がなく、どのような設備か分からなかったのですが、中西遺跡の水田跡が狭い区画で、さらに畔が低いことから、このような施設が「砂鉄水簸」ではないかと感じました。 

 私は、縄文海進の数千年の間に、海岸線や湖の汀、河川の合流地や湾曲地に堆積した大量の砂鉄を、弥生時代の海退により採掘できるようになったのではないかと考えています。
 奈良盆地が大きな湖だった太古、中西遺跡あたりは葛城川が流れ込む汀で、大量の砂鉄が堆積し、弥生時代になり湖が干上がると、かつての湖畔の砂浜に黒い砂鉄の帯が姿を現したと想像します。
 ゆるやかな傾斜に築かれた砂鉄水簸のための区画に、広範囲から採掘した砂鉄を含む砂を撹拌しながら流し込み、沈殿した砂鉄を採取したのではないでしょうか。狭い区画は、砂鉄の産出量を計る枡で、天日により水分を蒸発させるため低い畔にしたと考えます。

 砂鉄を掘り尽くした技術集団は、砂鉄水簸跡の区画を広げ、畔を高くし水田として利用できるよう整備し、次の採掘地を求め列島各地へ移動したのでしょう。水田を整備することで好意的に受け入れられ、弥生時代の稲作は各地に伝播したのかもしれません。
 中西遺跡の水田跡も、良田であれば後生に再整備され活用されたはずです。狭い区画のまま残されたのは、土に含まれる鉄分、いわゆる金気(かねけ)が多く、稲作に適さないことから放置されたのではないでしょうか。洪水による砂層が見つかっているようですが、砂鉄水簸に伴う残土ということはないでしょうか。

 奈良・中西遺跡の弥生時代の水田跡は、国内最大規模の「砂鉄水簸」の施設跡なのかもしれません。

(但馬二千年桂 Tajima Nisennen Katsura)

但馬二千年桂 古代史 目次 コチラ

参考図書

柴田弘武 著『産鉄族オオ氏』(2008年 崙書房出版)


 

吉野 裕 著『風土記世界と鉄王神話』(1972年 三一書房)

 

 

2019年7月 6日 (土)

第54話 【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群が大阪平野の東西に在るのは、そこに撓曲崖(とうきょくがい)が在ったから?

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 大阪府堺市の百舌鳥(もず)古墳群と、藤井寺市と羽曳野市にまたがる古市(ふるいち)古墳群が世界遺産に登録されました。

 日本最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)をはじめ、2番目、3番目に大きな前方後円墳はこの地に在ります。

 なぜ、大阪平野の東西に巨大な前方後円墳が造られたのでしょう。

 『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』(新之介著・2016洋泉社)に、太古の大阪平野の様子が紹介されています。

 それによると約7千年から6千年前、縄文海進による海水上昇がピークに達した頃、大阪平野は河内湾の海の底でした。

 約5千年から4千年前、旧淀川や旧大和川から流れ出す土砂により陸化が進み、上町台地の砂州も北に延び、湾の入り口は狭くなります。弥生時代には河内湖となっていたようです。

 私は、縄文海進の数千年の間に、海や湖の汀(みぎわ)、河川の合流地点や湾曲地点に大量の砂鉄が堆積したのではないかと考えています。弥生時代の海退により砂鉄を採掘できるようになったのではないでしょうか。
 3世紀中頃に出現し7世紀に消滅する前方後円墳は、採掘残土で造ったモニュメントではないかと考え、砂鉄を掘り尽くしながら技術集団が日本列島を移動する様子をゴールド・ラッシュになぞらえ、アイアン・サンド・ラッシュ(「Iron Sand Rush」)と名付けてみました。

 以前、松帆銅鐸が淡路島西岸で見つかった際、縄文海進時代の地図を見て、堺で弓なりに曲がり、鉤鼻のようにせり出た上町台地と淡路島西岸の反りぐあいが似ていると感じました。
 それ以来、河内湾から外海に流出した砂鉄は潮流で運ばれ、堺あたりに大量に堆積したのではないかと考えてきました。

 NHK『ブラタモリ#134~古墳の町・堺』(2019年5月25日放送)で、仁徳天皇陵は微高地に在り、海岸線に向かいゆるやかな坂が続いていることが紹介されていました。 
 タモリさんいわく、「断層は固いので極端にずれるが、地盤がやわらかいと粘土みたいに、“ふによっと”たわむんです」 
 タモリさんの言葉を聞き、この辺りの上町断層帯が切り立った断層崖でなく、ゆるやかな撓曲崖(とうきょくがい)だったことで、砂鉄を含む土砂を微高地に運ぶことができたのではないかと感じました。古墳が海岸線に平行してつくられているのは、土砂を最短距離で効率よく運搬したからではないでしょうか。

 ところで“百舌鳥耳原”という地名の由来に、鹿の耳から百舌鳥が飛び去るという日本書紀の怖い話があります。
 陰陽五行色体表を見ると、百舌鳥の“舌”は“太陽”にあたり、“耳”は“太陰”にあたります。鉱業に影響を与えたとされる陰陽五行説で解読すると、“百舌鳥耳原”は“太陽太陰の地”となり、本来は鉱業の特別な地を意味していたのかもしれません。

 さて古市古墳群はどうでしょう。

 本棚から新之介さんの第2弾『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩 広域編』(2017洋泉社)を取り出し、「古市」のページを見てみると、そこに羽曳野撓曲が描かれていました。
 奈良盆地に流れ込む河川は旧大和川に集約され、生駒山地の切れ目を通って古市で河内湖に流れ込みます。そこに撓曲崖が在ったことで、砂鉄が拡散せず大量に堆積したのではないでしょうか。

 「百舌鳥・古市古墳群が大阪平野の東西に在るのは、そこに撓曲崖があったから」かもしれません。
 
 4番目に大きな前方後円墳は岡山県に在り、纏向、大和・柳本、佐紀など奈良盆地の古墳群は、広大な沼沢地があった時代の周縁部に在ります。
 
 これらの謎に、アイアン・サンド・ラッシュという発想で迫れないでしょうか。

 

 追伸 
 前方後円墳の周濠は砂鉄を採取する装置で、ため池は水量を調整する装置ではないかと考えていると、当時のレアアース・砂鉄が流出しないようハスを植え、レンコンの収穫にあわせ砂鉄を採取する風景が浮かんできました。


(但馬二千年桂 Tajima Nisennen Katsura)

 

但馬二千年桂 古代史 目次 コチラ


参考図書

窪田蔵郎著『鉄から読む日本の歴史』(講談社学術文庫2003)

 

 

新之介著『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』(洋泉社2016)

 

新之介著『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩 広域編』(洋泉社2017)

 

 

 

 

 

2019年5月 9日 (木)

第53話 前方後円墳を飾る円筒埴輪は、砂鉄を袋詰めするための漏斗(じょうご)か?

 明石海峡を望む五色塚古墳には埴輪列が復元され、夕闇の中、シルエットが浮かび上がります。

 私は、「縄文海進により海水面が高かった時代に、当時の汀や河川の合流地点に大量の砂鉄が堆積し、海退によって海水面が下がった弥生時代から古墳時代にかけて、砂鉄を求めゴールド・ラッシュならぬアイアン・サンド・ラッシュ現象が起こったのではないか。3世紀から7世紀にかけて、技術集団が大量の砂鉄を掘り尽くしながら日本列島を移動し、残土で造ったモニュメントが前方後円墳ではないか。」と考えています。 

 そんな思いで埴輪列を眺めていると、壺を載せる器台が起源と言われる朝顔型埴輪が、昔、お米を袋詰めする際に使っていた長い足の漏斗に見え、筒を差し込んだ袋を並べ、砂鉄を詰める人々の様子が浮かんできました。
 
 前方後円墳は、河川の合流地点や、海上交通の要衝地などの目につきやすい所に造られたと考えられていますが、縄文海進時代に堆積した砂鉄が未採掘のまま大量に眠っていたから、その地に造られたのではないでしょうか。

 また、日本列島で砂鉄や鉄鉱石から製鉄が行われたのは6世紀後半で、それまでは朝鮮半島南部から延べ板状の鉄鋌(てい)を入手していたようですが、買付け船には、対価として原料の砂鉄が積まれていたのではないでしょうか。 

 百舌鳥・古市古墳群をはじめ佐紀、馬見、三島古墳群では、4世紀末から5世紀の同時期に巨大な前方後円墳が築かれますが、アイアン・サンド・ラッシュ現象がピークを迎えた時期なのかもしれません。

 五色塚古墳には2,200本、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)には1万本以上の埴輪が並んでいたようです。仮に、一袋に人が持てる約60キロの砂鉄を入れたとすると、五色塚古墳の近くで132トンもの砂鉄が採掘できたことになり、埴輪列は、古代の人々には墓域の境界とともに、砂鉄の産出量を誇示する飾りに見えたのかもしれません。

 「前方後円墳とは、縄文海進時代に堆積した砂鉄採掘の副産物」と考えることで、古墳群が古代の湾や盆地湖の汀に立地することや、前方後円墳が3世紀中頃に出現し7世紀に姿を消したことの謎が解明できると思うのですが。

但馬二千年桂 古代史 目次 コチラ

2018年3月 4日 (日)

第52話 “松帆銅鐸”は弥生時代の日本列島が“白黒の砂鉄”の宝庫だったことを物語るのか?

 

 

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『鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る』

 

(旧約聖書ヨブ記第28章第2節、新共同訳)

 

 

 

紀元前5世紀から前3世紀に成立したとされる『ヨブ記』は、鉄は岩からでなく砂から採り出したと語ります。(砂を土とする訳もあり)

 

 

 

国生み神話の舞台、淡路島の砂の中から見つかった7個の松帆銅鐸。

 

紀元前4世紀から前2世紀に埋められたことが分かった銅鐸は、何を語るのでしょう。 

 

 

 

私は、中国山地から瀬戸内海に流れ出した砂鉄が世界一の“鳴門の渦潮”でもまれ良質な砂鉄となったのではないか。

 

温暖化により海面が高かった縄文海進の数千年間に松帆地区に打ち寄せられたのではないか。

 

弥生時代の海退で砂鉄が採取できるようになり、銅鐸を地鎮祭の鎮物(しずめもの)として砂地に埋めたのではないかと考えてきました。(第50,51話参照)

 

 

 

しかし、瀬戸内海に流れ出した砂鉄は海の藻屑と消えてしまうことから松帆地区に打ち寄せられることができたのか疑問に感じてきました。

 

 

 

〇はじまりは、2万年前?

 

 

 

 『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子2017.講談社)に

 

 瀬戸内海は水深60メートルより浅い海域が大部分を占めることから、120メートルほど海面が低かった2万年前には、完全に干上がって陸地となっていたこと

 

 東西方向に流れる河川が形成され、東向きの河川は淡路島の北側を迂回し紀伊水道を通って太平洋に注いでいたこと

 

が紹介されています。

 

 

 

縄文時代より少し遡った2万年前の旧石器時代、瀬戸内海は陸地で、徳島と淡路島の間に鳴門海峡はなく、淡路島西側、松帆沖の播磨灘で合流した2本の川は淡路島北端、松帆浦で大きく湾曲していました。

 

 

 

この湾曲により川の流れがゆるやかになり、砂鉄は、2本の川の合流地点にレアアース泥として堆積したことで拡散を免れたと考えます。

 

 

 

 

 

縄文海進で海面が上昇し淡路島ができると、明石海峡と鳴門海峡の激しい潮流と世界一の“鳴門の渦潮”が発生し、海面上昇がピークとなった約6500年前から5500年前に、比重の重い砂鉄は、潮位の差や沿岸流により砂と分離し、松帆地区の大岩の根元や淵などに打ち寄せられ溜まっていたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

弥生時代の海退により海岸線が後退すると、当時、入江であった松帆地区の砂浜に、黒い砂鉄が現れたと想像します。

 

それはまるで、白黒2つの勾玉を組み合わせた陰陽太極図のようだったのかもしれません。

 

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白黒の砂鉄●

 

円山川支流の糸井川河口付近の古い字限図で、「耳田、籠、黒白」という隣り合った失われた地名を見つけ、「黒白」という語に興味を覚えました。

 

 『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)に

 

 「出石神社所蔵の文書に記された丹後国風土記逸文に、火明命が高志(越)の国を領したのは、オオナムチとスクナヒコの二神が「白黒の鉄砂」を得たので、これを二神の霊として、火明命をして奉祭りせしめた」

 

とあったことから、白黒二色は、陰陽五行説の影響を受けた砂鉄採取にちなむのではないかと考えるようになりました。(第10話参照)*陰陽五行説が生まれる前の段階かもしれません。

 

『日本書紀』のイザナギとイザナミによる国生み神話に小鳥のセキレイが登場することから、淡路島のオノコロ島ゆかりの地には、セキレイ岩や石が祭られています。

 

白黒二色のセキレイは、陰陽太極図そのものともいえる模様をもつ鳥であることから、『日本書紀』の一書に登場するセキレイの話は、白い砂浜の岩のまわりに溜まった黒い砂鉄をイザナギとイザナミが得たことで、国生みがはじまったことを語っているのかもしれません。

 

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あるいは、陰の凪(ナギ)と陽の波(ナミ)の均衡が図れたことで、汀の砂鉄が採取できるようになったと考えてみましたが、イザナギは男で陽、イザナミは女で陰で逆転しますし、イザナキとも呼ぶことから、関係なさそうです。

 

 

 

 

 

 〇和田(わだ)という地名

 

川や湾が湾曲したところに「和田(わだ)」という地名をみかけます。

 

万葉集に大伴旅人が吉野の「夢のわだ」も瀬にならずに淵のままであってほしいという歌を詠んでいます。「和田」は、単に川が湾曲した個所を呼んだのではなく、淵などに砂鉄が溜まった特別な場所を呼んだのではないでしょうか。

 

六甲山麓で桜ケ丘銅鐸などの銅鐸が集中的に出土しますが、神戸の和田岬一帯は、明石海峡の潮流で運ばれた大量の砂鉄が堆積していたことを物語っているのかもしれません。

 

桜ケ丘銅鐸に描かれた首の長い鳥はサギではないかと言われますが、砂鉄の採取を願い白黒二色のコウノトリを描いたのでしょうか。(第話参照)

 

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〇国生み神話の島々の誕生は何を語るのか

 

『古事記』の国生み神話では、淡路、伊予、隠岐、筑紫、壱岐、対馬、佐渡、秋津島の大八島と、児島、小豆島などの6つの島の誕生が語られます。

 

火山の噴火により花崗岩で形成された中国山地は、風化とともに砂鉄を含む真砂土が山陽側、山陰側に流出し、島々が陸続きだった2万年前、砂鉄を含むレアアース泥は、採取されることなく淵や低地に堆積していたと思います。(レアアース泥:第26話参照)

 

 瀬戸内海で島々が誕生した際、砂鉄が島の硬い岩盤の周りに堆積したように、九州と対馬の間に海峡ができると、湖のようであった日本海に溜まっていた砂鉄を含む泥が一気に動き出し、壱岐、対馬の島の周りや、九州、出雲の海岸線の淵などに砂鉄が堆積したのではないでしょうか。

 

内陸の谷の奥深くで39個もの銅鐸が発見された出雲の加茂岩倉遺跡は、地震の大津波で砂鉄が打ち上げられ窪地に残ったのかもしれません。

 

琵琶湖や吉野川、大和川、紀ノ川から瀬戸内海に流れ出した砂鉄も、摂津、阿波、難波、紀州などの海岸線から少し内陸に入った当時の汀に同じように堆積していたと考えます。これらの地は、数多くの銅鐸が出土する地域です。

 

 

 

 それに対し、太平洋に面した砂浜では激しい波が打ち寄せ、砂鉄は特定の場所に打ち寄せられず稲村ケ崎のように全体に黒い砂浜となったと考えられ、採取効率が悪くこの時代には採取されなかったのではないでしょうか。

 

西日本に白砂清松の美しい砂浜が多いのは、比重のことなる砂鉄が透明な石英の粒と分離し特定の場所に堆積していたことを物語っているように思えます。

 

 

 

〇砂鉄をキーワードにすると見えてくる古代史

 

旧石器時代から縄文時代の長い間、レアアース泥として海底に堆積していた砂鉄が、突如、弥生時代に海岸線に姿を現し、数世紀をかけ掘りつくされ、白い美しい砂浜が残った。

 

弥生時代は、砂鉄採取時代だったと考えると、環濠集落が守ろうとしたものは、貴重な砂鉄で、瀬戸内海や大阪湾の沿岸を中心に形成された高地性集落簡易な製鉄法に強い風が必要だったからと思えてきます。

 

古代の日本列島に鉄の生産技術はなく鉄鋌(てってい)を原料として入手していたと言われますが、お米や特産物では交易の対価として不均衡なことから、均衡のとれる砂鉄と鉄鋌を交換したのではないでしょうか。

 

灌漑設備を備えた本格的な稲作を伝播した人々は、稲作の地を新天地に求めたのではなく、砂鉄採取が目的で海を渡り、灌漑技術を駆使し、砂鉄を採取し、跡地を水田として整備したと考えられないでしょうか。

 

現代の地鎮祭の鎮物(しずめもの)は、鐘、刀、矛などの形をした金属板で箱に入るサイズになっていますが、弥生時代には、地鎮祭を演出するため銅鐸や銅剣、銅矛などは見せる青銅器へと大型化したと考えられないでしょうか。

 

銅鐸が突如、姿を消すのは、容易に採取できた砂浜の“白黒の砂鉄”を採取しつくしたからで、その後、灌漑技術を駆使し、湖沼を干拓し広範囲で砂鉄を採取するため、残土処理が必要になり、前方後円墳が生まれ、祭祀の方法も変化したのだと思います。

 

しかし、7世紀になると主な湖沼の干拓も終焉し、鉄は山から採掘する方が効率よくなり、前方後円墳は作られなくなったのかもしれません。

 

ところで、銅鐸に渦の模様がよく描かれますが、動力機をもたない古代人にとって、渦潮や滝壺の渦は、自然の力により、丸みを帯び加工しやすい良質な砂鉄を生み出す特別な存在であったのでしょう。

 

 

 

『日本書紀』が編纂された8世紀には、数世紀前に採りつくされた“白黒の砂鉄”は忘れ去られ、セキレイの話だけが伝わっていたのでしょうか。

 

それとも、国外に資源に関することを知られないようセキレイの話として記載したのでしょうか。

 

 

 

「弥生時代の日本列島は“白黒の砂鉄”の宝庫だった」 

 

 歴史書は何も語りません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *弥生時代のはじまりをこれまでより500年遡り、紀元前10世紀とする説がありますが、この文は従来の年代観で記述しています。

 

*タイトルの「日本列島」は、瀬戸内海、日本海に面した西日本をイメージしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考図書)

 

『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子2017.講談社)

 

『古代の鉄の神々』(真弓常忠1997.学生社)

 

『貝が語る縄文海進』(松島義章2006.有隣堂

 

 

 

 

 

但馬二千年桂 古代史 目次コチラ

 

 

 

 

 

 

   

 

2017年10月 6日 (金)

第51話 銅鐸は、砂鉄採掘事業の地鎮祭で埋めた鎮物(しずめもの)か?

 淡路島の西側、松帆地区で採掘した砂の山から偶然みつかった松帆銅鐸は、科学分析により、紀元前4世紀から前2世紀に埋められたことが分かり注目されています。

 

 銅鐸は、集落から離れた山や谷に埋めらた状態で発見されることがあり、謎の多い祭器とされています。

 

 当時の松帆地区は砂が堆積し、ラグーンと呼ばれる潟湖(せきこ)だったと考えられていることから、銅鐸を埋める目的は農耕祭祀(さいし)ではなかったのではと感じました。

 

 私は、海水面が上昇していた縄文海進の数千年の間に、鳴門の渦潮により生み出された良質な砂鉄が、松帆地区に鉱脈のように堆積していたのではないかと考えています。(第50話参照

 

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 ところで、銅鐸と言えば、出雲にある39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)と、6個の銅鐸と358本の銅剣が出土した荒神谷遺跡(島根県出雲市)が有名です。

 

 両遺跡の間の標高315.3mの大黒山には、兵主神社に大黒さんといわれる大国主命とスクナビコナがまつられています。
 神社の言い伝えによれば、大国主命とスクナビコナ神がこの山に登り、平野や内海を眺めて、国を豊かにしようと相談した所で、山頂は急で雨のため土砂が流れると大国主命が大変お嘆きになるので、参拝する人々が砂をもって登ったところ災いがなくなり、作物も良くできたということです。

 

 二神のコンビは、『古代の鉄の神々』(真弓常忠著、1997年学生社)に出石神社所蔵の文書に記された『丹後国風土記』逸文として、次のように紹介されています。

 

 「火明命が高志(越)国を領したのは、オオナムチ、スクナヒコの二神が「白黒の砂鉄」 を得たので、これを二神の霊として、火明命をして奉祭りせしめた。」

 

 私は、「白黒の砂鉄」は、連続する滝つぼでもまれ均一で丸みを帯び、河口付近に堆積した良質な砂鉄を意味するのではないかと考えています。(参照:第6話「白黒の砂鉄」と失われた地名「黒白」)

 

 スサノオの子孫とされる大国主命(別名:オオナムチ)と、スクナビコナのコンビは、各地に足跡を残していますが、地質学、地理学それに鉱物学に精通した砂鉄採掘技術集団の長だったのではないでしょうか。

 

 オオナムチとスクナヒコナが、大黒山の山頂から宍道湖や斐伊川の地形を読み、縄文海進時代に良質な砂鉄が堆積した場所の見当をつけ、採掘エリアを協議する様子が目に浮かびます。

 

 数千年かけ堆積した砂鉄を掘り尽くした技術集団は、未採掘地を求め移動したのではないでしょうか。

 

 いつの日か、砂鉄を採掘した時代があったことは忘れられ、大黒山に砂をもって参拝する意味が変わったのかもしれません。

 

 ちなみに『播磨風土記』では、オオナムチとスクナヒコネは我慢比べをする神として、また、火明命はオオナムチの子として登場します。

 

 さて、銅鐸を埋めた理由について、当初、砂鉄の鉱脈を掘る作業の開始と終了を知らせるチャイムとして使われていたものが、砂鉄を掘り尽くし用がなくなり埋められたのではないか、あるいは採掘量が減ってきた末期に、昔を懐かしみ、さらに採掘できることを願い埋めたのではと考えていました。

 

 加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡を訪れる機会があり、現地にたってみると、海岸線から離れた所にありますが、縄文海進時代には近くまで湿地帯が広がっていたと思われ、砂鉄採掘事業をはじめるにあたり、この地で、地鎮祭を行ったのではと感じました。

 

 地鎮祭では、産土神など土地の神をしずめるため、鎮物(しずめもの)を地中に埋めます。昔は、鉄製の人形(ひとがた)、鏡、剣、矛などを埋めたようですが、最近は、桐の箱に人形や鐘、刀、矛、盾、玉の形をした金属板が入っているものを埋めるようです。

 

 地鎮祭で盛る円錐形の砂を忌砂、斎砂と呼ぶことや、「産土」と書いて「うぶすな」と読むこと、鎮め物として金属板の鐘や、矛などを埋めること、これらは砂鉄採掘時代が忘れ去られた今日まで、儀式として継承されてきたのかもしれません。

 

 産土神(うぶすなかみ)に砂鉄が大量に採掘できることを願い、鎮め物として、銅鐸や銅剣を埋めたのではないでしょうか。

 

 当時、鉄製品は実用品で貴重であったことや、青銅は太陽の下では光輝き、祭の演出効果も期待できることから、銅鐸が装飾的になり大型化したと考えます。

 

 埋められた銅鐸の数は、砂鉄を採掘する範囲や予想埋蔵量に応じて、複数の技術集団が関わったことを示しているのでしょうか。それとも、地鎮祭の参列者がお供えとして持っていく風習があったのでしょうか。

 

 ところで、松帆3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、松帆5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸、加茂岩倉5号銅鐸と兵庫県豊岡市の気比2号銅鐸などは同じ鋳型で鋳造された同笵(はん)銅鐸と言われています。

 

 また、松帆7号銅鐸は中村銅鐸と外形が似ていることから、同笵関係があるか調査されるようです。

 

 出土地の大阪(伊丹)空港あたりは内陸に思えますが、海抜10mで縄文海進時代には大阪湾が入り込んだ入江でした。

 

 銅鐸は、弥生時代中期の環濠を持つ大規模集落の崖下から発見されています。伊丹段丘が突き出たところにあり、この地も砂鉄が堆積するポイントだったと感じました。

 

 近くに鴨神社がありますが、加茂岩倉といい砂鉄を採掘する集団は、湿地帯で常に見かけるカモに愛着を感じていたのかもしれません。

 

「気比(けひ)」は、“良質な砂鉄が眠る所”?

 

 松帆銅鐸が見つかった淡路島の松帆地区に、“慶野(けいの)松原”と呼ばれる美しい松並木が続く景勝地があり、柿本人麻呂も万葉集に「飼飯(けひ)の海」と詠んでいます。

 

 日本三大松原のひとつ福井県敦賀市の「気比の松原」は『日本書紀』にも詠まれ、「一夜の松原」とも呼ばれます。 

 

 近くにイザサワケをまつる気比神宮がありますが、神宮の使い白鷺が松の頂きに多数とまる伝承があるようです。白鷺は、製鉄の神が降り立つ際によく登場します。

 

 銅鐸が発見された豊岡市気比は円山川河口付近で、アメノヒボコ伝説が残る地です。
 『播磨風土記』では、アメノヒボコはアシハラノシコヲ(大国主の別名)と国を奪い合うことから、古事記や日本書紀が語る時代よりも古い時代に活躍していたのかも知れません。

 

 “気比(けひ)”という言葉の意味は分かりませんが、“良質な砂鉄” を採掘した時代があったことを伝える金属技術集団からのメッセージに思えるのですが、どうでしょうか。

 

 東京駅の改修の際、基礎杭に水に強い松が使われていましたが、天橋立などの松原は、もとは、風や高波から砂鉄の流出を防ぐとともに、採掘作業で使う杭や板を現地で調達するため植えたのかもしれません。

 

 松帆銅鐸が埋められたのは、紀元前4世紀から前2世紀とされています。

 

 オオナムチやスクナヒコナの神々は、その時代に活躍したのでしょうか。それとも、縄文海進時代に堆積した砂鉄の鉱脈が掘り尽くされ、銅鐸が埋められなくなる末期の時代だったのでしょうか。

 

(2017.10.19追記)

 

兵庫県立考古博物館で10月7日から開催中の特別展「青銅の鐸と武器」を見てきました。

 

松帆銅鐸の展示もさることながら「淡路島における銅鐸器分布図」というパネルが気になりました。

 

南あわじ市の松帆地区から南東に三原平野が広がっていますが、平野の東側山際に、銅鐸が出土したと伝わる榎列上幡多、賀集福井、神代地頭方の3地区がオリオン座のベルトの三ツ星のように並んでいます。

 

緑色の濃淡で標高を表した地図を見ていると、縄文海進の時代に三原平野から、さらに奥の細い谷間を通って海水が抜けていたのではと感じました。

 

帰宅後、海抜がわかるマピオン地図で標高を確認しましたが、平野の奥は海抜30mから40m台で、水路でもあれば抜けるかも知れませんが、入江になっていたと思われます。

 

おそらく、現在の慶野松原は天橋立のように湾につきでた砂洲で、入江になっていた三原平野では、縄文海進時代の数千年に、松帆地区や入江の東際あたりに砂鉄が堆積していたのではと感じました。

 

紀元前4世紀頃には、弥生時代の海退と山からの土砂の流出を受け、標高の高い入江の周縁部から順次、葦原の湿原になっていったのではないでしょうか。

 

湿地に松の杭を打ち込んで壁を作り、水を抜きながら干拓し砂鉄を採掘したのではないかと想像します。

 

3つの出土地が等間隔に並んでいるのは、海退にあわせ入江の奥から口に向けて採掘した際に地鎮祭を行ったことを物語るのかも知れません。

 

  ご一読いただければ幸いです。 

 

第6話 「白黒の砂鉄」と失われた地名「黒白」(コチラ

 

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

 

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

 

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

 

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)(コチラ

 

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。(コチラ

 

Katsuranoha

 

但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

2017年10月 2日 (月)

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。

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 国生み神話の舞台、淡路島の西側、播磨灘に面した松帆地区で2015年に出土した7個の松帆銅鐸は、付着した植物片の科学分析により、紀元前4世紀から前2世紀に埋められたとみられることが分かり注目されています。

 

 銅鐸は、農耕祭祀(さいし)に使用したとの説がありますが、集落から離れた山や谷に埋められていることから、謎の多い祭器とされています。

 

 銅鐸が埋まっていたと考えられる松帆地区は、2.5kmにわたる白い砂浜に約5万本のクロマツ林が広がる景勝地で、慶野松原と呼ばれていますが、当時は、砂が堆積しラグーンと呼ばれる潟湖(せきこ)だったと考えられています。

 

 ところで、淡路島西側の丘陵地では、鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」に引き続き、その規模を上回る1世紀から3世紀初頭の「舟木遺跡」が発見されましたが、弥生時代の製鉄は、海の向こうから原材料を運び行われたと考えられています。

 

 製鉄技術は、ヒッタイト国が紀元前12世紀ころ滅亡したことで紀元前10世紀前後にインドに伝わり、紀元前7世紀に中国、さらに紀元前2世紀頃に朝鮮半島に伝わったと言われています。
 4世紀後半の入佐山3号墳(豊岡市出石町)の被葬者の頭部付近で150gの砂鉄が見つかっていますが、今のところ日本で本格的に製鉄が始まったのは6世紀後半とされています。

 

 私は、『古代製鉄物語』(浅井壮一郎著、2008年彩流社)に、古代インドで桂(カツラ)の生木を還元剤に使用し小規模なふいごで低温で製鉄できたことが紹介されていたことから、国の天然記念物に指定されている樹齢2千年の“糸井の大カツラ”が、実は生木をとるため人工的に植えられ、糸井渓谷の連続する滝つぼでもまれた良質な砂鉄をもとに、2千年前に簡易な製鉄が行われていたのではないかと考えています。

 

 淡路島の地図を眺めると、南西部がせり出し松帆地区がくぼ地になっています。瀬戸内海に流れ込んだ砂鉄は播磨灘の潮流で松帆地区に寄せられ、海水面が高かった縄文海進の数千年の間に、大量に堆積していたのではないかと考えてみました。
 当時の砂浜は白い砂浜でなく、江ノ島の稲村ケ崎のように砂鉄の多い黒い砂浜だったかもしれません。

 

 松帆地区が播磨灘に面した他の地区と違う点は何?

 

 松帆地区が播磨灘に面した他の地区と違う点は何?と考えを巡らせていたとき、2冊の本がヒントを与えてくれました。

 

 1冊は、『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子著、2017講談社)です。四国と淡路島の間にある鳴門海峡の渦潮について発生メカニズムが紹介されていました。

 

 それによると、太平洋の満潮時、高まった潮位が紀伊水道から大阪湾、さらに明石海峡から播磨灘に伝わり、潮位が高くなった播磨灘の海水が、淡路島の西側の狭い鳴門海峡を通って紀伊水道に一気に流れ込むことで渦潮が生まれること。

 

 紀伊水道から鳴門海峡を通って播磨灘に海水が流れ込む際にも渦潮が生まれ、1日それぞれの向きに2回ずつ、合計4回約6時間ごとにこの現象が起きるとあります。

 

 もう1冊は、『凸凹を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』(新之介著・2016洋泉社)で、縄文海進により大阪平野が海だったころの地図が紹介されています。

 

 私は当初、松帆地区に堆積していたのは、中国山地から瀬戸内海に流れ込んだ砂鉄と考えていましたが、播磨灘で大きな渦を描くと細かな砂鉄は中心に集まってしまいます。

 

 縄文海進の時代、大阪平野は河内湾(のちに河内湖)には、琵琶湖や奈良盆地から砂鉄を含んだ土砂が流れ込んでいたことから、淡路島の周囲の海には、中国山地だけでなく近畿各地の砂鉄も漂っていたと思われます。

 

 身が引き締まった鯛の名産地で知られるとおり、淡路島の北と南には、明石海峡と鳴門海峡という潮の流れが激しい2つの海峡があります。
 淡路島の周りを激しい潮流にのって移動する砂鉄は、鳴門海峡で渦潮とともに戻されるなど複雑な動きをしながらもみ洗いされ、連続する滝つぼで生み出された良質な砂鉄に匹敵する均一で丸みを帯びた膨大な量の砂鉄が生み出されたのではないでしょうか。

 

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 昔、ナショナルに“うず潮”という洗濯機がありましたが、大潮のときには時速20kmに達する鳴門海峡で、最大30mに達するともいわれる世界最大規模の渦潮が生み出す砂鉄は、海進時代の数千年をかけ松帆地区にピンポイントで堆積し、鉱脈のようになっていたと想像します。

 

 私は、「銅鐸は砂鉄採掘を始めるにあたって行った地鎮祭の鎮物(しずめもの)ではないか」と考えています。

 

 銅鐸を造る青銅技術をもった集団にとって、純度の高い松帆地区の良質な砂鉄なら低温で製鉄することができたのかもしれません。あるいは、原材料のまま輸出していたのでしょうか。

 

 また、五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で鉄器生産が行われていたのは、淡路島西岸の丘陵地が、鉄器づくりにかかせない北西の季節風を受けること、海に囲まれ防御面で優れていることからと考えます。

 

 松帆地区では恐らく、1世紀から3世紀には堆積していた砂鉄は掘り尽くされ、一年毎に堆積する砂鉄しか採取できなかったと考えられ、播磨などから舟で運んでいたのかもしれません。

 

 ところで、縄文海進時代の地図を眺めていると、当時、岬であった大阪城がある上町台地の反りぐあいが淡路島西岸の松帆地区に似ている気がしました。

 

 上町台地東側の河内湾(のちに河内湖)に流れ込んだ砂鉄が干潮時に大阪湾へと流れ出し、台地西側の住吉大社あたりから、大仙古墳など大型の前方後円墳がある百舌鳥古墳群の広がる堺の海岸線あたりに、数千年をかけ大量に堆積していたのではないでしょうか。

 

 青銅技術をもつ技術集団は、鳴門の渦潮を見て、近くに良質な砂鉄が溜まっているに違いないと国生み神話の地、淡路島の西岸に目をつけたのではないでしょうか。

 

 彼らは日本列島を踏査し、河川や湿地、岬など地形を読み、出雲や円山川河口、摂津などで、同じ手法で良質な砂鉄を採掘したのではないでしょうか。

 

 海岸線の後退や上流からの土砂の堆積により、海抜の高いところから砂鉄を採取することが可能だったと考えられ、松帆銅鐸の同笵銅鐸が出土する出雲(荒神谷、加茂岩倉)、加茂岩倉と同笵関係にある円山川河口(気比)、摂津(桜ケ丘)など、各地の銅鐸出土地を縄文時代の海岸線の海抜を意識しながらたどれば、ダイナミックな砂鉄採掘の歴史が浮かび上がるかもしれません。

 

 縄文海進時代に海岸線にピンポイントで堆積していた箇所は、紀元前4世紀から数世紀をかけて掘り尽くされ、地鎮祭も行われなくなり、鎮め物の銅鐸は埋められなくなったのだと考えます。

 

 しかし、依然、河口付近の湿地帯など狭い日本列島の至る所に縄文海進時代の砂鉄が堆積していたと思われることから、宝の島ジパングを求め、ゴールド・ラッシュならぬアイアン・サンド・ラッシュ(造語:【iron sand rush】第25話参照)が起こったのではないかと思います。

 

 3世紀になると灌漑技術で湿地に眠る砂鉄を採取し、跡地を水田に開発し、残土で前方後円墳を造成したと考えてみました。各地の前方後古墳は、技術集団が砂鉄の埋蔵地を掘り尽くしては移動した歴史を物語っているのでしょうか。

 

 7世紀になると、縄文海進時代の砂鉄が掘り尽くされたか、湿地よりも山から効率よく原材料が採取できるようになり、前方後円墳は造られなくなったのかもしれません。

 

 古事記、日本書紀が編纂された8世紀には、かつて大量に砂鉄を採掘した時代があったことは人々の記憶から消え、淡路島は、国生みの神話の舞台としてのみ語り継がれていたのかもしれません。

 

 第25話「アイアン・サンド・ラッシュ【iron sand rush】という新発想で古代史の謎に挑む」(2012年9月1日)を書いた当時は、縄文海進時代に堆積していた砂鉄を求め、人々が一気に日本列島にやってきたと考えていましたが、何グループかの技術集団が、堆積した砂鉄の鉱脈を求め、数世紀をかけ日本列島を移動していったのではないかと考えています。

 

(2017.10.7追記)

 

兵庫・徳島「鳴門の渦潮」世界遺産登録推進協議会 のHPに「鳴門海峡に渦潮が生まれる仕組み」がイラストで詳しく紹介されていました。(コチラ

 

(2017.10.19追記)

 

兵庫県立考古博物館で10月7日から開催中の特別展「青銅の鐸と武器」を見てきました。

 

松帆銅鐸の展示もさることながら「淡路島における銅鐸器分布図」というパネルが気になりました。

 

南あわじ市の松帆地区から南東に三原平野が広がっていますが、平野の東側山際に、銅鐸が出土したと伝わる榎列上幡多、賀集福井、神代地頭方の3地区がオリオン座のベルトの三ツ星のように並んでいます。

 

緑色の濃淡で標高を表した地図を見ていると、縄文海進の時代に三原平野から、さらに奥の細い谷間を通って海水が抜けていたのではと感じました。

 

帰宅後、海抜がわかるマピオン地図で標高を確認しましたが、平野の奥は海抜30mから40m台で、水路でもあれば抜けるかも知れませんが、入江になっていたと思われます。

 

おそらく、現在の慶野松原は天橋立のように湾につきでた砂洲で、入江になっていた三原平野では、縄文海進時代の数千年に、松帆地区や入江の東際あたりに砂鉄が堆積していたのではと感じました。

 

紀元前4世紀頃には、弥生時代の海退と山からの土砂の流出を受け、標高の高い入江の周縁部から順次、葦原の湿原になっていったのではないでしょうか。

 

湿地に松の杭を打ち込んで壁を作り、水を抜きながら干拓し砂鉄を採掘したのではないかと想像します。

 

3つの出土地が等間隔に並んでいるのは、海退にあわせ入江の奥から口に向けて採掘した際に地鎮祭を行ったことを物語るのかも知れません。

 

(2017.11.20追記)

 

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鳴門海峡の渦潮でもまれた砂鉄は良質で、淡路産の砂鉄がブランド品として、袋に渦文様がデザインされていたのかもしれません。

 

後に、縄文海進時代に堆積していた砂鉄が掘り尽くされ、採掘量が減少してきた頃、淡路産の良質な砂鉄が採掘できた時代を懐かしみ、大型化した見せる銅鐸の飾耳などに渦巻き文様をデザインしたのかもしれません。

 

(2017.11.25追記)

 

「自凝島(オノコロ)神社と鶺鴒(セキレイ)石」

 

南あわじ市の松帆地区から南東に広がる三原平野の東側山際に、オリオン座のベルトの三ツ星のように銅鐸出土地があると書きましたが、その中のひとつ、榎列上幡多(えなみかみはだ)の近く榎列下幡多(えなみしもはだ)に自凝島(オノコロ)神社があり、本殿前にセキレイのつがいがとまりイザナギとイザナミに夫婦の道を示したという「鶺鴒(セキレイ)石」があることを知りました。

 

以前、ブログに、オノコロ神社にセキレイ石があるとコメントいただいていたのですが、その際、榎列の自凝島(オノコロ)神社と、南淡町沼島の自凝(オノコロ)神社と勘違いしていました。

 

第10話は、2012年6月30日 (土)に書いた古いブログで、今は少し考え方も違うのですが、セキレイ石を砂鉄採掘地の記念碑と考えると、銅鐸と砂鉄を結びつけることができるかもと思いました。

第10話 白黒と陰陽五行 日本書紀にセキレイが登場するのはなぜ?(コチラ

ブログを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)2015.5.20(コチラ

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

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但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

大阪「高低差」地形散歩には、第2弾、広域編も出版されています。

2015年8月26日 (水)

東北地方の製鉄遺構が沿岸から内陸に移ったのは、燃料の木炭が尽きたのではなく、沿岸部の砂鉄を掘り尽くしたからでは。

東日本大震災の復興工事に伴う発掘調査により、東北の宮城県山元町で、7世紀末から8世紀初頭の製鉄炉や木炭窯など、古代の大規模製鉄遺構が発見されたと、2015年(平成27年)8月23日付、神戸新聞の文化欄に紹介されていました。

その記事は、

「東北地方の製鉄遺構は、7世紀後半ごろ沿岸近くに出現し、製鉄が盛んだった9世紀になると内陸で見つかっている。

川から海に向かう河口付近で砂鉄を集め、近くの丘で木を切り崩して製鉄施設を設置。砂鉄の燃料の木炭が尽きると、内陸に移ったと考えられている。」

と結ばれていました。

以下は、素人の自由な発想の無責任な発言としてお読みください。

・燃料の木炭の材料を切り出す森の木が杉やヒノキなどの針葉樹であれば、一度伐採すれば生えてきませんが、桂やクヌギなど、株立ちの広葉樹であれば、毎年、更新することが可能で、計画的に間伐すれば尽きることはなかったと思われます。

また、百年もあれば植林した苗木は大木になります。古代人が現代人のように森を破壊したとは考えられず、古代の森は豊かだったのではないでしょうか。

百年かけ沿岸近くから、内陸に移った理由を、次のように推測すると、違った古代が見えてくるかもしれません。

沿岸部の砂鉄採取は、毎年、上流から流れてくる分の砂鉄を採取したのではなく、数百年かけ一定の条件の場所に堆積し、地下で鉱脈のようになっていた砂鉄を大量に採掘するダイナミックな土木事業だったのではないか。

百年かけ、沿岸部の砂鉄は掘り尽くされ、新たな砂鉄を求め、技術集団は内陸に向かい、山を崩しで砂鉄を採取したのではないでしょうか。

沿岸部の砂鉄と内陸の砂鉄を顕微鏡で比較すれば、沿岸部の砂鉄は、山から海に流れ着くまでに丸みを帯び、一方、内陸の砂鉄は、角があまり削れていないかもしれません。

東北地方の製鉄遺構が沿岸から内陸に移ったのは、燃料の木炭が尽きたのではなく、沿岸部の砂鉄を掘り尽くしたからではないでしょうか。

また、浜砂鉄、川砂鉄の採取から、山砂鉄の採取へと採取方法が変遷したことを物語っているのかもしれません。

なお、東北の技術集団は、西日本の砂鉄を掘り尽くした技術集団が、数世紀をかけ東日本、東北へと移動したのかもしれません。

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

Katsuranoha

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2015年5月20日 (水)

最古級の銅鐸が淡路島西岸で発見されたことは何を意味するのか?(考察メモ)

兵庫県南あわじ市の西岸沿いに位置する松帆(まつほ)地区で採掘された砂の中から、弥生時代前期ー中期(紀元前3世紀~同2世紀)の銅鐸7個が見つかり、数十年に一度の発見と注目されています。

「数十年に一度の発見」 砂山から弥生時代の銅鐸

(2015/5/19 17:00神戸新聞NEXT)コチラ

淡路で銅鐸発見 神話の島沸く (2015/5/20 YOMIURI ONLINE)コチラ

淡路島で銅鐸7点 集めた砂の中から発見
(5月19日 18時14分NHK NEWSWEB)コチラ

なぜ、淡路島の西岸から7個もの銅鐸が見つかったのか。この地に埋納されていたことは何を意味するのかは、今後の専門家の研究成果によることになりますが、個人的に考察メモを記録しておくことにしました。

【考察メモ 2015.5.20 但馬二千年桂】

・銅鐸は稲作の豊穣を祈るために埋納されたものか?

 特産品、玉ねぎが畑作物であることが象徴するように、大きな河川がなく、淡路島は稲作に適していない。稲作の豊穣を祈るのであれば、もっと全国各地で見つかっても良い。

・なぜ、淡路島西岸なのか?

 西日本の地図を俯瞰し、あらためて淡路島の形を眺めてみると、岡山県や、兵庫県西播の中国山地の鉄の山地から流れ出した砂鉄が瀬戸内海に流れ込み、播磨灘の潮流でもまれ、丸みを帯び、均一の良質の砂鉄となって、長い年月をかけ堆積する地が淡路島西岸の松帆地区だったのではないか。

播磨灘:瀬戸内海東部の海域。兵庫県南西部(旧播磨国)の南側に位置し、東は淡路島、西は小豆島、南は四国で区切られて西北部に家島諸島がある。(ウィキぺディア)

Photo

淡路島西岸といえば、弥生時代後期の鉄器づくり村、国史跡、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(淡路市黒谷)が有名である。

私は、これまで、淡路島西岸は鉄器づくりに適した風と、敵に狙われにくい防御面、さらに、西播磨、岡山、四国、和歌山など各地から材料となる砂鉄を海運で運べる利便性からこの地に鉄器づくりの村が造られたと考えていましたが、初期は、淡路島西岸が、良質な砂鉄の堆積地であったことから、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡の鉄器づくりの村が造られたのかも知れない。

弥生時代の銅鐸7個、砂置き場で発見 淡路島

(2015年5月19日19時33分 朝日新聞デジタル)コチラ ・・・この記事に西日本地図あり

・その地で青銅器の銅鐸がでるのは?

 39個と銅鐸が最多出土した加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)も、砂鉄が長い年月をかけ大量に堆積していた地域に思えることから、良質の砂鉄を求めた技術集団は、青銅器の高度な技術をもった集団だったのではないか?

 彼らは、地形から、良質の砂鉄の埋蔵地を予想できたであろう。しかし、採掘するまで埋蔵量は分からないことから、大量の砂鉄が採掘されることを祈願し、神事のあと、埋納したのではないか。

・時代とともに銅鐸が埋納されなくなったのは?

 地中に堆積していた砂鉄は、数世紀もすれば掘り尽くされ、その後は、河口で毎年、上流から流れてくる砂鉄を細々と採取したり、鉱山に移行したため、埋納する行事が執り行われなくなったのではないか。

 と考えると、それぞれの場所に埋納された銅鐸の数は、祭祀が行われた回数を示すのではないか。40個の銅鐸が出土したところでは、1年に1回であれば40年。2年に1回であれば80年の間、地下に堆積した砂鉄を採掘できたのかも知れない。

(2015.5.22追記)

松帆地区は、瀬戸内海を臨み、美しい松並木が続く国の名勝「慶野(けいの)松原」とその周辺に当たるという。

慶野松原といえば柿本人麻呂が万葉集に詠んでいる白砂青松の松原。

静岡市の三保の松原、敦賀市の気比の松原、唐津市の虹の松原、天橋立など、長い砂浜には防風林として松並木が作られているが、古代には、貴重な砂鉄を含む資源の流出を防ぐ目的で植えられ、砂浜が拡大したのかも知れない。

大量の松の木杭が東京駅の基礎杭として用いられていたことからもわかるとおり、松は水に強いことから、砂鉄採取の際、木杭として用いるため、植えられたのだろうか。

(2015.5.26追記)

淡路で銅鐸/謎の解明へ期待が膨らむ(神戸新聞2015/05/23)コチラ

(記事)「国生み神話で知られる淡路島と、神話の地である島根・出雲で古い型式の銅鐸が大量に見つかっていることも偶然ではない」→共通項は、「砂鉄」では。

島根・出雲の古い型式の銅鐸が山中からなのか、もしくは、古代の水際から発見されたのかわかりませんので、何の裏付けもない個人的な感想ですが。

古代史の謎は、アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】という仮設で説明できないでしょうか。

ブログを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第25話 アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 という新発想で古代史の謎に挑む(コチラ

 
【YouTube】アイアン サンド ラッシュ 【iron sand rush】 古代史の新発想 (コチラ

ブログの中から砂鉄について記載したものを再掲しました。ご一読いただければ幸いです。

第7話 コウノトリの足跡と但馬(コチラ

第46話 河内湖の蓮と鉄(コチラ

第26話 太平洋のレアアース泥と古代の盆地湖や河口湖の砂鉄(コチラ

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但馬二千年桂 古代史 目次(コチラ

第50話 松帆銅鐸は、世界一の“鳴門のうず潮”が“良質な砂鉄”を生み出した歴史を物語るのか。2017.10.2(コチラ

2015年4月24日 (金)

世界の城郭ファン垂涎(すいぜん)の逸品!「城ラマ 但馬 竹田城」

2015年(平成27年)4月22日、何気なくテレビ欄をみていると深夜、0時59分からのMBS「おとな会」のキャプション「天空の城を精密模型で復元する男」が目に止まった。

 

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竹田駅構内の案内所に展示されている地元、朝来市のご老人が造られたジオラマがでるものと思い録画して寝ることに。

 

翌朝、再生して見ると、テーマにあわせた職人さんを紹介する「おとなワーカー名鑑」コーナーに登場したのは、城郭復元マイスター?なる人物。

 

姫路城などではなくマニアックなお城のジオラマ、”城ラマ”を作る人って?

 

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photo by 吉田利栄

 

竹田城跡に魅了された人として登場したのは、思っていたご老人ではなく、ずっとお若い方。

 

「城ラマ」の企画・プロデューサー。お城ジオラマ復元堂の城郭復元マイスターの二宮博志さん。(コチラ

城郭のプラモデルと「城ラマ」の大きな違いは、川や山など周辺の地形を再現していること。

 

「城ラマ」がどんなものかは説明がむずかしいので、アマゾンのサイトでご確認ください。

 

第1弾の、三河 長篠城

 

 

第2弾の、遠州 高天神城

 

 

個人の観賞用ということで、1500分の1、家庭で気軽に飾れるA4サイズに周辺の地形も含めて復元されています。

 

しかし、あなどることなかれ、建物の幅は1cm、柱は0.5mm以下、鉄砲狭間も0.3mm角でリアルに再現されているという。

 

実は、もともとは、コピー機などの精密ギアを制作するパートナー産業という会社の2代目社長さんの城好きの趣味から生まれたプロジェクトと聞いて納得。

 

100分の1ミリの町工場の技術により造られた「城ラマ」。

 

イタリア、ミラノで開催されたクールジャパンブースで紹介され注目を集めるなど、プラモデル業界に新たな風を吹かせていると同番組。

 

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精度を高めるため城郭研究家の藤井尚夫さんと現地調査をするふたりの会話。

 

、「敵兵が山の斜面を横に移動できないための仕掛け、この縦堀はガッツリ表現したい」

 

どんな竹田城跡の「城ラマ」になるのでしょうか。

 

パッケージにアプリをダウンロードしたタブレットなどをかざすと、AR技術で川の水が流れ、お城の3DCG映像が楽しめるというおまけ付き。

 

城ラマ第3弾の「但馬 竹田城」は、世界中の城郭ファン垂涎(すいぜん)の逸品になる予感。

 

姫路城とならぶ日本の城として竹田城跡の世界的な知名度が高まるかもしれません。

 

注文が殺到し、発売即、出荷停止なんて清涼飲料のようにならないよう、1年分ぐらい製造してから発売してくださいネ、社長さん。

 

ところで、1600年に廃城した竹田城には図面が現存しないため、石垣の縄張り(平面構成)から、各々が城郭を想像できるという楽しみ方があります。

 

Photo

 

登り石垣や、北千畳の尾根づたいにある観音寺山城の石垣も復元されるのでしょうか?

 

お城ジオラマ復元堂のHPには、「城郭復元ジオラマシリーズ、城ラマ第3弾 但馬 竹田城」Coming soonの文字が。(コチラ

 

発売が楽しみです。

 

Coming soon.カミング・スーンってことは、近日中ですか?二宮社長さん。

 

パッケージに「Takeda Castle Ruins」という文字もさりげなく入れてくださいネ。

 

と書いて、復刻版ということ建物があり「城跡」ではないからRuinsではないのか・・・。

 

城ファンの人は廃城して石垣しか現存していないことはご存知ですが、ニュースや雑誌に紹介される写真をみて、あまりにも精巧で、今も城があると勘違いする人が続出するかも。

 

海外からお見えになった人が「shiro nai shiro doko」と、ボランティアガイドのおじさんに外国語で話しかけ、おじさんが「koko shiro kore shiro」と笑えない光景が広がりそうです。

 

50万人の来城者の中には、建物のない城の良さを理解できない方がおそらく5千人?はお見えになるので。

 

二宮社長さん、パッケージのどこかに、小さく「竹田城は1600年に廃城となり石垣のみ現存しています。」みたいなキャプションを入れてくださいネ。できれば英語も。

 

地元のひとりの竹田城ファンより

 

 

 

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竹田城下町交流館内の情報館「天空の城」に復元された模型

 

MBS「おとな会」(コチラ

 

A4サイズにピッタリのコレクションケースです。

 

但馬 竹田城のサイズはわかりませんので、発売後、ご確認ください。

 

 

 

(2015.4.24追加)

 

竹田城の麓を流れる円山川には、当時、さらに上流まで鮭が遡上していました。また、上空にはコウノトリが舞い、山には鹿がはね、対岸の朝来山の中腹には、城主が愛でるため山桜が植えられ、但馬吉野(現在は立雲峽)の名で親しまれていました。

 

竹田城のパッケージにアプリをダウンロードしたタブレットなどをかざすと、AR技術で、川にサケが遡上し、山を鹿や猿の群れが移動し、コウノトリが舞う。巨石がゴロゴロする朝来山には満開の山桜。金梨山の山頂付近には、巨石の祠(金梨山大権現、画像で検索)、そんな世界を3DCG映像で再現できたらリアルな廃城当時が甦ると思います。もう遅いのかなぁ・・・。

 

PhotoPhoto_4

 

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2015.4.29追記)

 

お城ジオラマ復元堂さんの「城ラマ開発奮闘記」に

 

[城郭復元プロジェクト] 但馬竹田城始動!

 

投稿日 : 2015年4月28日 著者 : 二宮博志

 

がアップされています。(コチラ

 

第3弾が竹田城になったいきさつに、鳥取の山城サミットが。

 

何かに熱中する人が集まり、人と人が出会うと、新たな展開に・・・。

 

ということのようです。

 

2015.5.2追記)

 

2014年9月に開催された第54回全日本ホビーショーに、城ラマが出展された様子を紹介したサイト。パーツの緻密さ、半端ない。(コチラ

 

2015年9月の第55回全日本ホビーショーに出展されるのだろうか?それとも、もっと早いのだろうか?竹田城の城ラマが待ち遠しい今日この頃です。

 

2015.5.13追記)

 

お城ジオラマ復元堂さんのサイトをみると、「鋭意製作中」になっていた。待ち遠しい今日この頃。

 

2015.5.31追記)

 

2014年に開催された第54回全日本模型ホビーショーでの詳細なレポートを見つけました。

 

お城を山まるごと再現するA4サイズの城郭復元ジオラマシリーズ「城ラマ」(GIgazine 2014年09月26日 13時30分00秒コチラ

 

NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台となった、真田氏時代の上田城が但馬竹田城に先立ち、商品化されました。(2016年3月発売)

 

 

 

 

 

天空の城 竹田城最後の城主 赤松広英 (集英社文庫) 文庫 

 

2019/2/20 に発売されていました。

 

 

2015年3月13日 (金)

秋スタート、NHK朝ドラ「あさが来た」のヒロインは波瑠(はる)さん。「あさが来た」と書く市は?竹田城跡がある兵庫県の朝来(あさご)市。

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photo by 吉田利栄  

波瑠、「4度目の正直」でヒロインに=秋スタートの朝ドラ「あさが来た」-NHK
2015年3月12日(木) 18時33分掲載コチラ

波瑠さんってどんな人?っていうあなたへ

“ショートヘア美女”波瑠が朝ドラヒロインに<略歴>

モデルプレス 3月12日(木)19時34分配信コチラ

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雲海に浮かぶ日の出まえの粟鹿山(中央)と竹田城跡(右手)

竹田城跡の情報は、朝来市HPコチラ

Photo


『軍師官兵衛』オープニングの竹田城跡から望む粟鹿山の「あさが来た」シーン。

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日刊ゲンダイ 3月15日(日)9時26分配信

“平成の夏目雅子”と話題 NHK朝ドラヒロイン波瑠が持つオーラ(コチラ

NHKオンライン2015年3月15日

ヒロインは波瑠さん!平成27年度後期 連続テレビ小説「あさが来た」(コチラ

2015.6.3追記)

朝ドラ史上最高のセットに波瑠、宮崎あおいらが驚がく

WEBサンテレビジョン 6月3日(水)18時54分配信 (コチラ

 

2015年3月 7日 (土)

2015年3月20日は竹田城跡の山開き。

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竹田城跡の置物を苔の上においてみました。

竹田城跡の精巧なプラモデル発売されないかなぁ。


2015年3月 3日 (火)

木目調の床。窓向きの座席。観光列車「天空の城・竹田城跡号」2015.3.20 リニューアルデビュー!!

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あのラッピング列車、「天空の城 竹田城跡号」が帰ってくる!

2015.3.20 車内の装い新たに観光列車としてデビューします。

3月20日 竹田城跡山開き
観光列車「天空の城 竹田城跡号」デビュー!
特急「はまかぜ号」が竹田駅に毎日停車!

2015年3月 3日プレス(コチラ

「天空の城」観光列車 座席窓向き、竹田城跡を一望

(3月3日(火)22時14分配信)神戸新聞NEXT(コチラ

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ホームの向こうには、美しき鉄道遺産『和田山駅レンガ機関庫跡』。(コチラ

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ガタン。ゴトン。JR播但線和田山駅5番のりば。

非電化のホームをゆっくりと出発。

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町並みをすぎると、車窓にひろがる円山川の桜並木。

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周りの山並みを彩る山桜。

6月にはこんな景色がひろがります。

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電車とは一味ちがう床下から伝わる心地よい振動。

ガタン。ゴトン。

ガタン。ゴトン。

7分間の列車旅。

あっという間に竹田駅に到着です。

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竹田駅前の竹田城下まち商店街をしばし散策。

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天空バスで竹田城跡へ。

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あるいは、竹田城跡を望むビューポイント、円山川をはさんで対峙する但馬吉野、立雲峽までハイキングするもよし。

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この列車、いいな~というあなた。

いっそ、竹田城跡は明日にして、もうひと駅。

のんびり鉄旅。播但線。

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竹田駅でみなさん降りられますので、窓向きの座席に座れる確率が高まります。多分。


青倉駅まで足をのばすもよし。

新井駅まで足をのばし、近代化産業遺産『神子畑選鉱所跡』に行くもよし。

*バスの便は事前にご確認ください。

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生野駅まで足をのばし、生野銀山を訪れるもよし。

竹田城跡をより理解するには、生野銀山ははずせません。

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長谷駅、寺前駅と足をのばすと、市川の渓谷美を楽しめます。鉄旅おすすめのコースです。

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近畿地方、最大級の円墳、国史跡茶すり山古墳。

式内社 粟鹿神社。

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樹齢2千年の国天然記念物、糸井の大かつら。

とても、一日では、朝来市の魅力をお伝えできません。

ぜひ、朝来市にご一泊ください。

ラッピング列車「天空の城 竹田城跡号(キハ40系)」2014年4月26日 (土)(コチラ

【友といっしょに豊岡のねぐらに帰る動画57秒】2014.5.6撮影(YouTube コチラ

 

*はじめての動画で、カメラの手持ち撮影のため、手ブレで見づらいです。

2015年2月28日 (土)

近くにゾウ現る!?竹田城にEV車で行きたい!EVで遠出。EV新時代はじまる!

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三角のギザギザの上に、右をむく象がいるのがわかりますか。

この象の話は後ほど。

現れたのは、電気自動車(EV)の急速充電スポット、チャージスルゾウ。

Photo

竹田城跡にもっとも近い高速道路のIC。

和田山インターチェンジの出入り口にあるファミリーマート和田山IC店で、EVの急速充電器が利用できるようになりました。

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EVは、まだまだ近場の乗り物で、竹田城跡まで遠出はどうかなと思っているあなた。

チャージスルゾウ充電スポットMAP(コチラ

ファミリーマート 便利なサービス(コチラ

高速道路のサービスエリアと全国のファミマ充電スポットを利用すれば、EVで遠出もあたりまえになりそうです。

そんなEVの新時代到来を告げるCMを考えてみました。

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『天空の城、竹田城にEV車で行きたい!EV de 遠出。EV新時代はじまる!』

どこかで聞いたような・・・ご愛嬌。

日本列島の地図を上空から俯瞰。

無数の点にカメラが寄っていくと、ひとつひとつがEV充電スポット。

さらに、よっていくと、とある都内のファミマで充電し、日産リーフに乗り込む20代の女性3人組。

『天空の城、竹田城にEV車で行きたい!』と盛り上がります。

彼女たちが目指すのは、東京から600km離れた竹田城跡。

途中、新東名と名神のサービスエリアで急速充電。

待つ合間も、うまいものを食べながら、おしゃべりを楽しみ、時間はまったく苦にしない彼女たち。

ガソリン車の時代の足早な旅から、EV車は、のんびり旅に。

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旅のスタイルもかえてしまいます。

竹田城跡についた彼女たち。

南千畳の松の老木の下でひと言。

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『この松の木のある風景を後世に伝えるために、みんながEV車にのって空気がきれいになればいいね。』

社長兼CEOのカルロス・ゴーンさんの鶴の一声でこんな感じのCM。無理かなぁ。

竹田城跡の松こと、たけマチュくんも、いつの日か竹田城跡への車の乗り入れは電気自動車になっていることを願っております。

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ところで、三角のギザギザの上に、右をむく象。

忘れるところでした。

竹田城跡に近い、北近畿豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」。

そこに併設された朝来市埋蔵文化財センター『古代あさご館』(無料)(コチラ)にある巨大レプリカで復元された三角縁神獣鏡に描かれた日本最古の象の文様のです。

三角縁神獣鏡。魔境と話題に。朝来市「城の山古墳」出土の鏡には、日本最古の象の文様あり(2014年1月30日 (木))(コチラ

竹田城跡にお越しの際、是非、どこにあるか探してみてください。

*2015年3月19日までは、竹田城跡には登れません。円山川をはさんで対峙する立雲峽からの眺望をお楽しみいただくか、城下まちの散策がおすすめです。

2015.3.13追記

経産省、EVやPHVの高速道路利用者に最大6万円の調査協力費支給

Impress Watch 3月12日(木)19時1分配信 (コチラ

2015年2月16日 (月)

一目惚れで1-ClickしたGARDMANの巣箱。シジュウガラ、気にいってくれるかなぁ?

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手造りの巣箱は2年続けてモズに荒らされたので、アマゾンで入口に金属ガードがついた巣箱を見つけました。

英国GARDMAN(ガードマン)のクリームイエローのビーチハット ネストボックス(巣箱)は、浜辺の小屋をイメージした巣箱。 

一目惚れで1-Click。シジュウガラ。気にいってくれるかなぁ?

シジュウガラは冬の間に、巣箱の品定めをするので、庭を観察する楽しみが増えました。

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シジュウカラ。「ツッピー、ツッピー」翻訳すると・・・(コチラ

色違いや、ムーミン谷のコテージのような巣箱もあります。

«春はすぐそこと告げる淡き檸檬色の蝋梅

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「天空の城 たけマチュくん」   自己紹介

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