日本海側最大級の前方後円墳は、丹後半島にあります。ひとつは、全長201メートルの網野銚子山古墳(京丹後市網野町網野)、もうひとつは、全長190メートルの神明山古墳(京丹後市丹後町宮)です。
4世紀末から5世紀初頭の2基の前方後円墳は、直線距離にして10キロメートルしか離れていません。
なぜ、丹後半島のこの場所なのか。何か分かるのではないかと、丹後古代の里資料館を訪れることにしました。
開館までの間、近くの道の駅「てんきてんき丹後」内の山陰海岸ジオパーク情報センターで、琴引浜の鳴き砂などを楽しんでいると、近くに立岩があることがわかり、先に見に行くことにしました。
巨大な立岩は、竹野川河口をふさぐようにどっしりと居座っています。岩の東には砂が大量に堆積し、竹野川は岩の西に流れていました。
そばに間人(はしうど)皇后・聖徳太子母子像があり、ハマエンドウの紫の花や、薄紅色のハマヒルガオが5月中旬の砂浜を彩っていました。
資料館を訪れ、なぜ、丹後半島に巨大な前方後円墳が造られたのか、その答えを探しました。
砂嘴(さし)によって外海と隔てられた潟湖(せきこ)が発達し、古代に港として利用されたと考えられていること。
潟湖の周辺にその地方最大の古墳や由緒ある神社が分布していることから、港により繁栄したと紹介されています。
確かに、河口付近に水田の広がりはなく、交易によらなければ巨大な前方後円墳を造れなかったと思われます。しかし、先ほど見てきた立岩の光景が目に浮かび、竹野川河口にあった潟湖は、はたして良港だったのかと感じました。
砂嘴に遮られた潟湖には、大雨の度に上流から土砂が供給され、立岩で遮られた河口は浅瀬になったのではないでしょうか。
堆積した土砂を定期的に取り除かなければ、底が平らな船でも進入できなかったと思われます。
久美浜湾のように、ある程度河口が広い潟湖は良港だったと思われますが、巨大な前方後円墳は造られていません。
丹後半島の与謝野町加悦に蛭子山古墳があります。この4世紀中頃に造られた全長145メートルの前方後円墳は、潟湖の湖畔に造られた先ほどの2基とは違い、河口から8キロ程上流にあります。
これら3基の前方後円墳に何か共通点はないでしょうか。
海抜のわかる地図、マピオンで調べてみると、いずれも海抜10メートル前後に立地しています。
竹野川上流7キロ、海抜10メートル地点には、5世紀前半に造られた全長105メートルと少し小さな前方後円墳、黒部銚子山古墳(京丹後市弥栄町黒部)もあります。
磯砂山(いさなごさん)のような砂鉄を流出する山が上流にあることも共通点と思われます。
ところで、丹後、但馬、丹波は、奈良時代に分割されるまでひとつの国でした。
全長134.5メートル、但馬最大の前方後円墳、池田古墳は、円山川上流40キロ、海抜70メートル地点のさらに高台にあります。
5世紀初頭の古墳からは多くの水鳥形埴輪が出土し、但馬の王墓とされています。
川が湾曲したところを和田といいますが、兵庫県朝来市和田山町のこのあたりも、円山川が大きく湾曲しています。
私は、縄文海進により、日本海が河川の奥深くまで入り込んだ時代、汀に上流から運ばれた大量の砂鉄が堆積したのではないかと考えています。
汀だけでなく、巨岩の根元、小島の周りに堆積し、弥生時代の海退により各地で砂鉄が露出し、採掘できるようになったのではないでしょうか。
丹後半島では、海抜10メートル地点の汀や、潟湖の湖畔に砂鉄が露出したのではないでしょうか。
前方後円墳の造られた年代のずれは、半島の東側で砂鉄を採掘した集団が、西側に移動したことを物語るのでしょうか。それとも、埋蔵量の違いにより、前方後円墳の完成時期に差が生じたのでしょうか。
砂鉄を採掘し尽くした技術集団は、若狭、高志へ、あるいは大和、河内へとあらたな砂鉄の採掘地を求め移動していったのかもしれません。それにより、丹後王国が衰退したと想像します。
また、砂嘴や立岩で遮られた潟湖は、選鉱所のプールの役割を果たしたと思われます。
満潮時に海水で撹拌され、比重の高い砂鉄は同じ場所に堆積し、海に流出した石英は沿岸流にのり、琴引浜のような不純物の少ない砂浜が形成されたのでしょうか。
久美浜湾や、天橋立によって仕切られた阿蘇海のような潟湖は広い上、水深も深く、砂鉄が外海に流出したり、特定の場所にとどまらなかったと考えます。
そのため、砂鉄採掘時の残土を積み上げた巨大な前方後円墳は造られなかったかもしれません。
日本海側にある出雲は、中国山地から大量の砂鉄が流れてきたと思われます。しかし、巨大な前方後円墳は造られていません。
砂鉄の純度が高く、残土があまり発生しなかったか、砂地で積み上げられなかったのでしょうか。
豪華な副葬品を埋葬するには、等価の交易品が必要です。海産物や特産品だけでなく、主は縄文海進時代の砂鉄だったのではないでしょうか。
砂鉄を輸出し、刀や農具に加工し持ち帰り、その交易により財を蓄えたと想像します。
天の橋立のある宮津に向かう途中、伊勢神宮の外宮ゆかりの奈具神社に足を延ばしました。神社の麓は海抜20メートルで、この地も汀に砂鉄が堆積していた時代があったと考えます。
道の駅の名前「てんきてんき」は方言だろうかと調べてみると、竹野神社の神事での男の子の囃子の一節でした。
ところで吉野ケ里遺跡の「謎のエリア」で発見された石棺墓が注目されています。
有明海から20キロ上流、海抜15メートル地点にある吉野ケ里にも縄文海進の時代に砂鉄が堆積していたのではないでしょうか。
豪華な副葬品と一緒に良質な砂鉄が埋葬されているのではないか。
「吉野ケ里遺跡の石棺墓から砂鉄」そんな見出しを期待しているのですが、どうでしょう。
こちらもご覧ください。
但馬二千年桂 古代史についてのブログ 目次 コチラ
(2023年6月10日追記)
吉野ケ里遺跡の石棺墓の発掘調査が行われています。
新聞報道によれば、石蓋と側壁の隙間を埋める目張り用の白色と黒色の粘土が同時に用いられていたことが分かったようです。
映像を確認していませんので状況かわかりませんが、白色と黒色の粘土を同時に用いることで、陰陽のバランスをとろうとしたのでしょうか。
後に鉱業に影響を与えた陰陽五行説の影響を感じます。
出石神社所蔵の『丹後国風土記』逸文には、オオナムチとスクナヒコが「白黒の鉄砂」を得、火明命が高志を領したと記されています。(真弓常忠:『古代の鉄の神々』学生社1997)
オオナムチが活躍した時代がいつなのか、「白黒の鉄砂」がどのような砂鉄なのか、わかりません。
石棺墓が造られた弥生時代後期に砂鉄を採取していたなら貴重品と思われ、頭部に、鏡などとともに袋か壺に入れられた砂鉄が埋葬されていないでしょうか。期待が高まります。
また、被葬者は小柄なようです。女性の巫女で、頭蓋骨に朱が塗られているかもしれません。



































































